足跡、蟻の行軍
目を開けると、既に日は落ち、暗闇の中だった。ベッドのシーツの下に隠してあった鍵を取り、扉を開ける。
なるべく音を出さないように、ゆっくりと慎重に鍵を回す。金属と金属がすれる微かな音が、何も無い静寂の中に響く。カチャリと小さな音を立て、錠が開く。
私は靴を履いて、初めての夜の収容所を歩いていく。クラウスの紙切れには、綿密な脱出計画が書かれていた。だが、この様子を見ると、そんなものすら必要無いかもしれない。
この収容所は既に半分放棄されているようなものだ。人員の補充も無く、日を追う事に囚人の数が目減りしている。今まで暴動が起きなかった事が不思議な程だ。
収容所の外周に築かれている壁は、内側からは決して逃れられぬように作られたのだろう。だが、どれほどの時間を掛けたのかは分からないが、人一人通れるほどの穴が、監視の目を逃れて作られており、偽装を剥がせばすぐにでも通り抜けられるようになっていた。
結局失ってしまったものは何一つ取り返す事は出来なかったが、それでも手に入れたものもあるから。
穴を潜り抜け、外へと出る。もう、ここに来てから何日経ったかも覚えていない。
空には満月が、黄金色の光で地面を照らしていて、夜と言うよりは夜明けにすら思えてくる程だ。
しばらくそこから歩くと、森が見えてきた。森にはいい思い出が無い。死にかけたし、捕虜になったから。直進するならここを通った方が良いだろうが、遭難する可能性もある。迂回していこう。
いつしか、雲が月明かりを隠していた。
森に背を向け、別の道を探す。月明かりが無い今、出来れば星の明かりが多く当たる方が良いが……
パキリと枝を踏む音が聞こえる。木の葉と何かが擦れる音が連続し、硬質さを感じる音が聞こえる。
後ろに振り向く。
銀色の光が私の目の前にある。
首を動かすと、右の頬を何かが通り過ぎ、急に熱くなってくる。
ここに来て、初めて何者かが襲ってきたのだと実感した。ヘルメットを被り、軍服を着て、顔は見えないが、敵の軍人には違いない。
襲撃者はナイフを両手に持ち直し、再び駆け出してくる。
規則的な軍靴の音、確かに感じられる興奮した息遣い、金具同士が擦れあって聞こえる音。様々な音が同時に聞こえ、世界がゆっくり動いているかのように思えた。
身体を左に、足を横に振り、脛を蹴る。
相手は一旦バランスを崩して、それでも振り返り、もう一度突進する。
ナイフが胸に向かい、薄皮を切る。ナイフを持つ右手を掴む。
もう一度脛を蹴る。右手で顔を殴りつける。殴りつける。殴りつける。
相手が右手を振りほどき、私の首の肉が削ぎ落とされる。
殴って斬られ、世界は赤くなっていく。斬られて痺れる。ぎこちなくなっていく。構わない。
ナイフを掴み、力を入れる。
相手も、奪われまいと力を入れる。
顎紐にナイフが掠り、ヘルメットが地に落ちる。
もつれ合い、倒れ込む。
のし掛かられ、ナイフを刺される。
構わない。
頭に振り下ろす。振り下ろす。振り下ろす。
繰り返す。気づけば周りに動くものはいなくなっていた。
糸が切れた人形のように地面に倒れ伏す。死んでしまう所だった。でもまだ生きてる。
「ハハッ」
笑みが零れる。私はまだ生きているから。生きていられるから。
今頃になって傷口が主張を挙げる。最初はヒリヒリと麻痺していたのが、針で繰り返し刺されているような痛みに変わる。左の太ももにはナイフが刺さって、動く度に電流が走る。
何か止血するものは無いか?襲撃者の遺体を漁る。……包帯だけが見つかった。
ナイフを抜こう。ゆっくり抜いたら余計痛むだけだから、一気に抜かなければ。取っ手を掴む。まだ力も入れていないのに呼吸が荒くなってくる。
落ち着け、そうしなければ余計酷い事になるだけだ。大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。大丈夫だ。思い切りナイフを引き抜く。
一瞬視界が赤く染まる。
「ッ!!」
大した事無い、こんな痛み。そんな事より血が溢れ出そうとしているから、止血しなければ。
痛みで何度か手間取り、失敗しながら傷口を覆っていく。
全ての処置が終わった頃、雲の切れ間から月明かりが私を照らすように差し込んでくる。
明るくなった事で、襲撃者の顔がハッキリと分かるようになって来た。
彼の顔は、ヨハンを殺した兵士と同じものだった。
なんでこんな所で死んでるんだよ。ヨハンを殺して、罰せられ、それで逃げ出してきたのか?私の親友を殺したやつは、こうも呆気なく死んでしまったのか?
胸ポケットに黒光りした何かが見える。それをゆっくりと引き抜くと、私が落としたはずの拳銃だった。
……こんな形で見つかるなんて。
感傷に浸るのは後でだって出来るから、今はまず、国を目指そう。
満月が段々と降りていき、空が青色の絵の具で塗り替えられていき、水色の光が地平線から漏れ出す頃、ようやく味方の野営地を見つけた。
歩哨がこちらを見つけたのだろう。銃口が私を囲む。彼が用意していたのが銃弾だったのだろうか、言葉だったのだろうか?それを確かめる間もなく、断線したラジオのように、私の体は言うことを効かなくなり、次第に意識も闇に沈んでいく。
結局私のした事は、部隊の仲間を犠牲にした事だけで、自分でやった事と言えば、拳銃を取り返しただけだ。
私は多くのものを失って、ちっぽけな勇気の種を手に入れた。割に合わなさ過ぎる交換だ。
でも、犠牲を払ったからこそ、皆が支えてくれた私の命だからこそ、そのこじんまりした種を、いつしか立派な大樹にする為に、私は戦場へと向かうだろう。
今度は絶対に失敗しない。今度こそ間違えたりはしないから、皆が紡いだ物語を絶えさせないためにも、また一歩足を踏み出そう。
捨てた銃弾、ボリジの花よ 朝易 正友 @ms26
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