愛おしき私の日常
油の匂い、人の臭い。私の息の音が聞こえ、遅れて車の音が聞こえる。車はどうやら私の下を走っている様だ。
ゆっくりと目を開く。
周りには手を縛られた人が集められていた。私の手も同じだ。どうやら何かに乗せられて、運ばれているようだ。どうやら、行先は良い所では無さそうだが。
周りはすでに戦場では無かった。あの恐ろしい戦場では無く、ここはある意味平和で、それだけはただただ嬉しかった。
車はしばらく走って、そして監獄のような場所で止まった。私の予想通り、良くない場所だ。
「降りろ」
今日から私は、晴れて囚人になるという訳だ。臆病への代償だろう。高望みは出来ないけれど、せめて水と飯が十分配給されると良いのだが。
しばらく経って、捕虜というものは、伝えられていたほど恐ろしいものではなかったらしい、という事が分かった。
非人道的な実験や、射撃訓練の的にされるといった事は一切無かった。ただ兵士の監視下で、少し厳しい作業を行うだけであった。
「二一四七番、作業が遅れているぞ!」
「分かりました」
二一四七番、それが私に与えられた名前だ。ここでは私は私でなく、一人の囚人なのだ。そうやって飼い慣らされている。さあ、作業を続けよう。それが私の役目なのだから。
「作業は終わりだ!戻って食事とする!」
そこそこな重労働を終えて、ようやく食事にありつける。私の横でくたばりそうになっていた奴も、途端に息を吹き返して歩いていく。
ここでの食事は、やはり想像していた通りに質が良くない。更に、知らない、とは言ってももう幾度も食べているのだが、料理ばかり食べさせられる。
知ってるものと言えば、カンパンとか、そういうのが回されてくる位だ。それだって携行食と比べてすら美味しいとは言い難い。
スープを掬い、啜り、飲み込む。ここに配膳されるまでに時間が掛かったのだろうか、少しぬるめだ。具も少ない。干し肉に似たのと、キャベツやよく知らない野菜が浮かんでいるだけとなっている。
だが、作業に疲れきった体に、この塩辛いスープは少しだけ美味しく感じる。塩が体中に染み渡っていき、浮かんでいる肉や野菜から染み出た出汁は、それがクズであっても、確かな旨味を運んでくれる。
パンだって、質の悪いものを使っているのだろうが、スープに浸して食べることで、その綿のような身の中に、旨味と塩気を閉じ込め、そのまま食べるよりはマシになる。
食事を終えれば部屋に戻される。その後はもう寝るだけだ。昔の私とほとんど変わらない。起きて、働いて、食べて、寝る。娯楽が無かったり、自由で無かったりもするが、ここには確かに平穏がある。
私が向かっていた戦場には無い平穏だ。私にとって、それは喉から手が出るほど欲しいものだ。
アントンは死んだ。戦場に殺された。私の手元には何も残っていない。戦場は全てを奪い去る。私には、それが何よりも恐ろしい。
この平穏はずっと続くだろう。私たちの国が勝つか、それとも負けるか。どのような決着かは分からないが、戦争が終わるまでずっと続く。その日が来るまで日常となったこの暮らしを繰り返すのだ。
夜も遅い。ここでの朝は早いのだから、今日ももう眠ってしまおう。
「今日部隊に配属する事となりました。ザシャです。よろしくお願いします」
「ああ、歓迎するよ、ザシャ。私はアントン。知っているだろうが、部隊長だ。今日からお前を扱いていく。覚悟しておけよ」
「私だって、一応訓練では好成績を残していました。多少キツいものになったとしても、そう苦労はしないでしょう」
「そうか。なら相当キツいものにしても着いていけるだろう。弱音は吐くなよ?」
いきなり胸を掴まれた。なんなんだいきなり。彼は顔を近づけてくる。掠れた声が聞こえてくる。なんて言っているんだ?
頭が焼け付くように痛む。アントンは生きてなんかいなかった。老人のような皮と骨だけの体で、赤黒い染みが広がっていく。肩を掴む力は段々と強くなっていき、私の腕が無くなった。
声が段々と大きくなっていく。彼が最後に残した言葉は、確かに私を呪っていたのだろう。
覆いかぶさっていたボロ布を振り払う。格子の外を見れば、すでに日が顔を出しているみたいだ。夢だったのだ。一、二年ほど前だっただろうか。あの頃の私は訓練兵で、今は新兵。それほど大きな進歩は無かったが、それでも昔の私は少しばかりやんちゃだった。
それをアントンが矯正してくれた。戦場での心得を教えてくれた。他にも色々あったが、つまり、彼は私にとって師と同然だった。そして、私の前で死んだ。
顔を洗おう。朝の時間は短いのだから。
どうやら、新しい捕虜が連れてこられるようだ。彼らは、勇敢に戦い、それでも負けてここに連れてこられた者ばかりだから、負傷していたりする人が多い。
彼らを見ていると、逆に私が見つめられている気がする。彼らは戦ったのに、私は逃げていて、彼らはきっと戦友の死にも負けなかっただろうに、私は逃げ出して。まるで四肢に枷を着けられたような、あるいは海に溺れて深く沈んでいくような、酷く私を締め付ける何かを感じる。
新参者が晒したのは、やはり赤黒い血と包帯に包まれた体、そして私の良く知っている、親友の顔だった。
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