この世界に名前はない
草森ゆき
その世界はある程度平和だが、犠牲と献身により成り立つ不自由な平和であった。
各地に点在する住人は不都合があるとひとつのメッカを目指して行進する、その先には不幸を幸福に転じる女性が住んでいる。
彼女にはヴァレリーという名があった。しかし誰もが「昇華の巫女」もしくはただ単純に「巫女」と呼ぶ。懇願の際には様をつけた。ヴァレリーは静かに頷き人の望みを叶えながら生きていた。
ヴァレリーの住まう屋敷はそう大きくはなかった。人々の前に現われる際は、大きく開けた屋根のない舞台を使用した。無限に寄り集まった人々は舞台上に立つヴァレリーに向けて一斉に願いを口に出した。聞き取る必要はなく、さっと手を翳すだけで事は済んだ。
重病が一瞬にして治る者、集落の飢饉から解放される者、蔑まれた醜い容姿が美しく変わる者、様々な不幸が幸福に転じた。人々は巫女を称え、食物や金銭を貢ぎ、自分の住居へ引き返した。
ダインがヴァレリーに拾われたのは偶発的な出来事だった。彼女は毎日人々の果てない望みを叶え、疲弊の後に屋敷近くの森林で静かに体調を整えていた。その日の森林には、昇華の巫女にあと一歩辿り着けなかった女性の亡骸が転がっていた。
ヴァレリーは力不足を嘆いた。手厚く弔おうと傍で膝を折った際、女性が一人ではないと気付いた。腕には三歳ほどの子供が抱えられており、か細い呼吸で生き長らえていた。
死という不幸だけはヴァレリーにはどうしようもない事象であった。彼女は絶命寸前の子供を抱き上げ、飢餓という不幸を満腹の幸福へと転じることしか出来なかった。それから、他に方法が思い付かず、住まいの屋敷へと連れ帰った。これがダインだった。後に世界を滅ぼすことになるヴァレリーの祝福を最も受けた少年である。
屋敷は一人だけ、シャルルという使用人がいた。ヴァレリーはシャルルにダインの世話を頼んだが、ダインはヴァレリーの服を握り締めて離さなかった。飲まず食わずでの旅による疲労のため、母親と出掛けた、という記憶はおぼろげにあっても、母親が亡くなった、という記憶はダインから欠落してしまっていた。自身を今腕に抱いているヴァレリーこそが庇護者だと刷り込んでいたのだった。
これにより世話の七割はヴァレリーが行うこととなった。時にはダインを片腕に抱いたまま民衆の待つ舞台に立って不幸を昇華した。巫女が子供を連れていることに気付く者は殆どおらず、おや、と思いはしても自分に必死であったため、問い掛けようとする者もいなかった。支障が出ないことをヴァレリーは安堵したが、シャルルは不安げであり、十歳ほどに成長したダインは不自然だと捉えていた。
ダインは真っ直ぐに育っていった。十二を越える頃にはヴァレリーが姉や母親の類ではないと気付いており、しかしおれの本当の家は家族はと問い掛けはしなかった。ヴァレリーのこともシャルルのことも好きだった。二人に何かあるならば自分が守ろうと考えるのみだった。
ダインの考えは真摯な目を見れば伝わった。ヴァレリーは自らダインを、彼の母親が眠る場所へと連れて行った。森林の奥深くにそれはあった。木々の隙間から輝く陽光が差し込み、小さな湖がある清浄な空間に、慎ましやかな墓標が立っていた。
「ヴァレリー」
実母の墓前に佇みながらダインは口を開いた。
「おれを助けてくれてありがとう、おれもいつか、ヴァレリーがくるしむようなことがあったなら、ぜったいに助けてみせるから」
嘘偽りのない言葉にヴァレリーは驚いたが、じわじわと喜びは広がって、堪らずダインのまだ小さな肩をそっと抱いた。
「ダイン、貴方に祝福を授けるわ」
ヴァレリーはダインの髪を慈しみながらやさしく撫でた。ダインの中には巫女の祝福が宿り、心地よい風が喜ぶように、二人の周りを吹き抜けた。
十四になった日、ダインはヴァレリーが寝静まるのを待ってから、使用人室をそっと訪ねた。シャルルは突然の来訪に驚きはしたが、思い詰めた表情にただならぬものを感じ取って、室内に入るよう促した。
「……なあシャルル、どうしてヴァレリーは、みんなのねがいを叶え続けているんだろう?」
シャルルは当惑した。館で働き始めた頃、ヴァレリーは既に巫女であり、事の発端については何も知らなかった。しかしじっと答えを待つダインに向けて、恐る恐る口を開いた。
「ダイン様、私にはあの方の心すべてはわかりません。ただ、私のみをお雇いになった理由は存じ上げております。あの方は元来、静寂が好きなのです。平穏、と言い換えましょうか。私は取り立てて秀でた能力はございませんが、ヴァレリー様は私の穏やかな声が耳心地良いと仰られ、使用人として置いて下さいました。それからはずっと此処におります、その間、ヴァレリー様は一日も休まず不幸を幸福へと転じてらっしゃいます。あの方は、世界が静かであるために、努力を惜しまない方なのではないでしょうか」
ダインはしばらく考え込んでいた。それから言った。
「じゃあヴァレリー自身は、一体なにを幸福として生きているのかな」
一介の使用人には答えられない質問だった。無言になったシャルルに謝罪してから、ダインは使用人室を後にした。
館の廊下は月明かりだけが差していた。様々なものが寝静まり、民衆も押し掛けて来ない時間だった。しんみりとした静謐の廊下を、ダインは虚無的な気分でゆっくりと歩いた。
ふとヴァレリーが眠っているはずの部屋から物音がした。立ち止まると静かに扉が開き、灯りを手にしたヴァレリーが顔だけをそっと覗かせた。傷付いたような表情を浮かべるダインに驚きはしたが、何も問うことはなく、おいで、と穏やかな調子で彼を部屋へ招き入れた。
ダイン。貴方には飛び切りの幸福が来るわ。どんな不幸も私が幸せに変えてあげる。どんな不幸も帳消しに出来るような祝福を貴方には与えているの。たったひとつになるけれど、貴方の願いは必ず叶うわ。
ダインは無言のままだったが、ヴァレリーが苦笑しながら手を握ると、しっかりとした手付きで握り返した。寝室の匂いはどこか清潔で、それはヴァレリーが清廉な人であるからだとダインは思った。世界のために毎日願いを叶える人、叶え続ける人。民衆はヴァレリーではなく巫女が必要で、彼女の能力外に興味はない。そのことはダインをひどく打ちのめしていた。
ねえヴァレリーあなたの幸せってどこにあるんだ? やがてダインが震えた声で絞り出すと、ヴァレリーは柔らかく微笑んだ。
この館にすべてあるのよ。私を巫女ではなく、ヴァレリーと呼んでくれる人。
ヴァレリーの死は快晴の日に雪が降るような唐突さだった。
毎日の業務、即ち集まった民衆の不幸を幸福にするため舞台に現われ、手を翳して願いを叶える直前に起こった。ヴァレリーは呻きもせず叫びもせず、ただゆっくりとその場にくずおれた。そして赤褐色の塊を吐き出し、自力で仰向けになってから、冴えた色合いの青空を見つめた。美しく静かな、安寧を湛えた空だった。少なくともヴァレリーはそう思った。感じ入るように瞼を閉じたあとは、もう動かなかった。
「ヴァレリー!」
亡骸になったヴァレリーにダインが走り寄った。舞台に飛び乗り、ぐったりとした体を抱き起こす。何度も名前を呼ぶが反応はない。
そのうちに、民衆のどよめきが耳に届いた。巫女の死を悲しむ声は一瞬だった。これから俺達はどうすればよいのだ。まだ怪我が治っていない、村はこのままでは水没する、不自由な左足を動くようにしてくれ。民衆の不満はヴァレリーを抱いているダインにすべて向かった。暴動になる。ダインは予兆を嗅ぎ取り、同時に心の底から怒りを覚えた。この人を殺したのは闇雲に願いを聞かせ続けたお前達だろう! ダインが叫び散らす前に、事は起こった。
ヴァレリーの胸元から、淡い緑色の茎が伸びた。それはみるみるうちに成長し、呆然とするダインの目の前で赤い花を咲かせた。騒いでいた民衆も押し黙り、ぽかんとしながら開花を見つめていた。
ヴァレリーの体は次々に芽吹き、葉をつけ、花開く。その循環は無限に行われていった。馨しい香りが辺り一面に広がった。
騒ぎを聞いて駆けつけたシャルルが見たものは、舞台上にうみだされた鮮やかな赤い花が織り成す、一面の花畑だった。無数の赤色の真ん中にダインは座り込んでいた。はじめに咲いた花をそっと両手で包み、ヴァレリー、と呟いてから、涙を零し始めた。
民衆の一人が、ダインの目を盗み、花を一輪摘んだ。香りを確かめてから蜜を吸うと、不治の病がたちどころに治り健康そのものになった。それを見て一人、また一人と花を摘み始め、不幸が幸福に転じた人々は満足げに帰っていった。ダインとシャルルだけがその場に残された。
民衆はその後もやってきては花を摘んで蜜を飲んだ。やめさせようとダインが説得を試みるが、邪魔をするなと縛り上げられ暴力を受けた。全身に怪我をしたが、ヴァレリーである花の蜜を吸うはずもなく、這うようにして屋敷へ帰った。
シャルルは満身創痍のダインを看病し、明くる日大勢でやってきた人々に、ヴァレリーを静かに眠らせてあげてほしい、あの方は充分に世界に尽くしました、もうおやすみになっているのですと訴えた。聞き入れられなかった。悪寒で目覚めたダインがぼろぼろの体を引き摺り花の舞台に向かうと、赤い絨毯の中に横たわるシャルルがいた。花の束を守るような格好で事切れていた。ダインの慟哭は突き抜けるような青空の下、どこまでも響き渡ったが人の心には響かなかった。
ダインは間違いなく不幸であった。喉が枯れるまで叫んだあとに自覚した。そして優しく暖かくいとしく、ダインを慈しみ続けてくれたヴァレリーと、謙虚で思慮深く忠実だったシャルルのために祈った。
昇華の巫女の祝福よ。不幸を癒して幸福にしておくれ。おれの幸福は愛するヴァレリーと親しむシャルルの安らかなねむり、ただこれのみである。ヴァレリーを吸い続けた人々が、もう二度と彼女を搾取することがないようにしておくれ。
祝福はダインの切実な願いを昇華した。程なくしてダインは静かに息を引き取ったが、何処までも赤く美しい花に埋もれた亡骸は、途方のない幸福に包まれていた。
ダインの幸福のため、人々は二度とヴァレリーを吸うことが出来なくなった。赤い花畑を目指そうとした者達は順番に死んでいき、恐れて行くことをやめた者も、かつては搾取したためにやはり死んでいった。安らかにねむるヴァレリーを脅かす危険のある者達は滞りなく死に続けた。
そして今は誰もいない。
この世界に名前はない 草森ゆき @kusakuitai
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