蜘蛛
@ciexx05
…
僕の風呂場には、蜘蛛が住んでいる。
掌より少し小さいくらいの大きさの、茶色がかった蜘蛛だ。
それがどんな種類かは知らない。知ろうとも思わない。
ただ、僕が風呂に入る度、奴は天井から、壁から、或いは浴槽の縁から、僕を見つめ続けている。
蜘蛛には目が八つあると聞いた事があるが、奴には目が五つしかなかった。
直接奴の目を見たわけではない。しかし、僕には確信がある。
奴の目の数は、五つである。
奴の存在に気付いたのは確か、八月の初め頃であった。酷く暑い日だった。
慣れない職場でのストレスの所為か、幼い頃から好きだった筈の夏の暑さは、ただ疎ましいだけのものに変わっていた。蝉の声に情趣を感じている余裕などは皆無だった。
早く家に帰りたい。家に何があるわけでも無い。ただ独りになりたい。人と関わるのは疲れる。
したくもないのに勝手に仮面を被り続ける自分に、僕はそろそろ限界を感じ始めていた。
ボロ臭いアパートの階段を踏みしめ、ようやく扉の前へ辿り着く。
部屋に入ると同時に、自分が今まで呼吸をしていなかったことに気付いた。
やはり家は落ち着く。蝉の声から、太陽から、人間からも隔離された世界。
静かだ。僕は本当は静寂が好きなのだ。
周りから見えている「僕」なんて人間は、所詮誰かが作り上げただけの薄っぺらい人間だ。
幻想なのだ。周りのもの全てが馬鹿らしい。
ただ、昔から音楽だけは好きだった。音楽を聴いている時だけは、何も考えずに済んだ。
ロックもクラシックもバラードも、際限なく聴いた。全てが良かった。
初めに鳴らす音一つ変えただけで、幾らでも表情を変えてゆく音楽は、僕にとって間違いなく魔法だった。感動した。あんな音を生み出す人間に、純粋に憧れた。創れないからこそ憧れたのだ。
僕には所詮、何の才も無い。その内、そんな音楽も聴くことが少なくなっていた。
そうして汗を流そうと風呂場へ向かった時、奴は現れたのだ。
何故か知らん、ただその蜘蛛を見たとき、「見つかった」と思った。
見られてしまった。なんの仮面も被っていない僕の顔を。
夢を拭いきれない僕の本当を、見られてしまった。
八本の脚が、まるで音を立てるように風呂場の白い壁を這う。
僕を狙っている。途端恐ろしくなり、殺そうかと思ったが、手をかざしたところで止めた。
奴の目は五つだった。
それからと言うもの、風呂へ入る度に奴は僕をジッと見詰めている。
僕は目を瞑っていても、奴の居る場所がすぐに分かる。
五つの目で見つめられると、やはりその圧は大きいらしい。
僕が風呂場で下手な歌を口ずさもうが、下手な詩を披露しようが、奴は静かにそこにいた。
歌いたければ歌えば良い、俺は別に聞いていないぞ、とでも言いたげな態度で壁に捕まっていた。
僕はそんな奴の態度に腹を立て、更に大きな声で歌を歌った。
それでも、奴が僕の歌を聞くことはなかった。
僕は更に腹を立てたが、同時に何かが満たされたような感覚も確かにそこにあった。
充実していたのかも知れない。たかが蜘蛛一匹で、これ程満たされるものなのだろうかとも思うが、僕は確かにこの日々に満足していた。この小さい風呂場が全てだ。歌だって好きなだけ歌った。
その一年後、僕の作った曲が作曲クリエイターオーディションで一位を獲得した。
自信のある曲だった。駄目で元々、と応募したにも関わらず、結果は採用の二文字。
職場で舞い上がった。信じられなかった、手が震えた、涙が出た。幼い頃からの夢だったのだ。
そしてその時も、奴はまだ生きていた。蜘蛛の寿命がどれくらいかは知らないが、長生きなのではないかと思う。どうでもいい。早く奴に聞かせたい。この曲を歌って聞かせて、今度こそ唸らせてやるのだ、あの無機質な顔を歪ませてやるのだ。
然し風呂場へ行こうが何をしようが、もう奴の姿を見ることはなかった。死んだのかも知れない。何処かへ行ったのかも知れない。一体、今更何処へ行くというのか。狡いじゃないか、こんな僕ばかり、こんな。本当はただの蜘蛛だったのか。僕と同じじゃなかったのか。
なぜ今居なくなるのだ、僕はどうやってこれから曲を作ればいいんだ、おい、どうすれば。
「……それと、万引に何の関係があるんだ。」
僕の話を聞き終わると、警察は呆れたように息を吐いた。
いいんだ、これはお前なんかに解る話じゃない。
僕一人じゃ書けないのだ、盗るしか無いだろう。
「店の人も許すと言っているし、今回ばかりは見逃すが、次はないぞ、良いか。これは特別だからな。」
特別、という言葉に若干苛立ちを覚えた。
僕は特別ではない。僕には才能なんてない。夢なんて叶わない。
なんの金にもならないような、安いものを盗みたい。
あの蜘蛛のようなものを手に入れたい。何処にもない。
どこへ行っても見かける蜘蛛は、目が八つ揃っている。
蜘蛛 @ciexx05
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