第4話 別れの決意
翌朝にて
「あ、赤松さん。おはよう。あはは……」
ゲッ。
今日の朝もよりによって、この子に会うなんて。
口に出かけた台詞を、生唾ごと飲み込んだ。
一瞬言葉に詰まるも、精一杯の元気を振り絞って挨拶する。
彼女だって僕を嫌っているのに、無理してまで接する必要なんて、どこにあるんだ。
「……フン」
「あっ……」
内面の毒が、顔に出てしまったのだろうか。
プイッとそっぽを向けると、彼女は僕の元から去っていく。
返事くらいしてくれてもいいのに、ずいぶん感じの悪い子だ。
明るい円とは、似てもにつかない。
彼女にとっては友人でも、僕にとっては不愉快な赤の他人の内の一人でしかない。
颯爽と人混みの中に消えていく赤松さんを見送ると、僕はさっさと教室に入っていった。
数時間後
3限目の授業は、男女混合の水泳だった。
上手い生徒と下手な生徒とに別れて、飛び込み台の前に並んでいる。
団体でやる運動は嫌いだけれど、水泳は特別だった。
水の中では誰にも干渉されないし、色んなしがらみを忘れていられる。
それに円が愛してやまないスポーツだ。
僕が水泳を好きな理由は、それだけで十分だった。
バチャン。
笛の音と共に、一斉に水しぶきが上がった。
右端の6の数字の飛び込み台に並ぶ生徒たちは、まるで回遊魚の如くすいすい泳いでいる。
「うわぁ、すごいねぇ。今吉くん」
「格好いいよね」
水泳部所属の今吉に、黄色い声援が飛んでいる。
周囲の女子の一言に円も同調しており、むずむずと嫉妬の炎が燃え上がった。
僕だって、いいとこ見せてやるぞ。
まじまじと眺めていると、どんどん順番が近づいてきて、ついに自分の番が回ってきた。
台に上がり、横を見遣ると、みんなブーメランのように身体を折り曲げて、笛が鳴るのを今か今かと待っていた。
「ピーーーッ!」
やかましい音が周囲に響くと同時に着水すると、冷水が全身を包み込む。
背筋を伸ばして、手を左右交互に回して、脚を開かずに水を蹴って。
昔、円に教わったやり方に則ってクロールをした―――つもりだった。
けれど手足を必死にばたつかせて、もがいても、身体は沈んでいくばかり。
水の抵抗というのは思うより大きく、頭のシミュレーション通りには進まない。
眼を見開くと、無数の泡が視界を遮って、僕の行く手を阻もうとする。
まともに泳ぐ練習をしたことのない自分は、蛙やラッコはおろか、犬にさえなれなかった。
ダ、ダメだ……。
「ぐごごご……」
溺れかけた僕が、どうやって25m先に辿り着いたのかは覚えていない。
無我夢中で、綺麗に泳ぐことなど考える余裕がなかったのだ。
「それに引き換え、柳沢はダサいわね」
辛辣な一言が、親しくもない女子から浴びせられる。
「ハハハ、亮ちゃんは運動音痴だから……。あ、でもパズルゲーム上手いんだよ! 反射神経はいいから、きっと筋肉がつけば……」
「肝心の運動神経がねーけどな。いくら頑張っても亮にはスポーツ無理だろ」
円のフォローになっていないフォローに、通りすがりの秋原が突っ込みを入れると、どこからともなく笑い声が響いた。
周りに視線を遣ると、女子たちは口元を隠してクスクスと、厭らしい笑みを零す。
こいつめ、待ち構えたように嫌味を。
僕が睨みつけると、負けじと秋原もこちらに視線を向ける。
秋原和宏(あきはら・かずひろ)。
僕とは幼稚園から一緒の、円以上の腐れ縁だ。
幼い頃は毎日のように遊ぶ、親友とも呼ぶべき仲だった。
家にも、何度かお邪魔させてもらったこともある。
けれど、いつからか秋原は僕に対して冷たく当たるようになった。
それからは交遊もめっきり減り、今では険悪だ。
しかしスクールカーストは、こいつが上位。
僕が逆らっても、どうせ誰も味方してはくれない。
必死になって抵抗しても、その様子を嘲笑って、いじりという名の嫌がらせに利用する。
僕はよく知っているのだ。
どいつもこいつも、みんな敵だ。
学校に、居場所なんてものありはしないのだ。
行きたくもない学校に通うほどに、同級生への敵愾心(てきがいしん)がふつふつと沸き立つ。
ただただ、みじめだった。
死にたい気分だった。
でも、彼らに非はないのだ。
全て僕が傷つくのが悪いのだ。
嫌なら学校を辞めればいい。
それが、この世の中の理なのだから。
「……うっ、うぅぅ……。もう放っておいてくれよ!」
「ごめん、亮ちゃん! 私、無神経だったよね」
「うわぁ、柳沢くんひどーい」
女子たちの耳障りな甲高い声が、鼓膜を刺激する。
苛立ちのあまり、言葉を荒げる。
他の生徒は、どうでもよかった。
けれど憂いに沈む円を見て、僕は再び自己嫌悪に陥る。
円はこんな僕の、どこを好きになったんだ。
学校で嫌われ者の自分と一緒にいたら、彼女もただでは済まない。
もしかしたら幼馴染の友達という関係を壊したくないから、嫌々付き合うことにしたのか。
最悪な想像ばかりが、脳を掠める。
無論、不本意な付き合いというのは憶測に過ぎない。
本当に、心の底から喜んでくれた可能性だってある。
だけど99の善意より、1つの悪意が怖いのだ。
円との思い出は、かけがえのないものばかりだ。
だからこそ、傷つけまいと優しい嘘をつかれていたら―――僕は立ち直れない。
どんな希望も安っぽく、慰めにはならなかった。
悲観的な妄想に浸っている間だけが、心休まる時間だった。
円を最低な人間にしてまで自分を守ろうとして、僕は駄目なやつだ。
己の卑怯さを自覚して、自分で自分が嫌になる。
赤松さんの言葉通り、彼女に相応しい人間ではないのかもしれない。
でも……!
相反する二つの感情は水と油のように交わることなく、胸の内でぐるぐる渦巻いていた。
あの子は手の届かない存在なのよ。
心の中でこだましていた台詞は、ずしりと重みを増していく。
知ってるさ、そんなことくらい。
反応してみるも、心の声は一向に収まらない。
「亮ちゃん、元気だして……」
「……ごめん、ごめん」
落ち込む僕の背中に手を回し、円は励ましてくれる。
唐突に不機嫌になって、彼女も動揺しているのだ。
心理的な負担になりたくないし、傷つけるなんてもっての他だ。
別れるべきなのかもしれない。
心ない発言に追い詰められた僕は、選びたくもない選択肢を自分自身に突きつけた。
太陽と月は、同時に存在できない。
僕と円が付き合ったことは、まさに奇跡だったのだ。
「最後にさっき八つ当たったこと……謝らないとな」
タオルで眼を拭いながら、ぼそりと呟く。
彼女との短い夢は、大事にしよう。
たとえ離れ離れになっても、愛情を抱いた子には筋を通したいから。
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