第3話 兄と弟
円からの誘いを断った一人きりの帰り道。
「あの子は手の届かない存在なのよ」
今朝の赤松さんの言葉が、未だに自分の中で尾を引いていた。
本来なら無視した台詞なんて、聞く価値もないのだ。
僕は告白し、彼女が受け入れてくれた。
その事実の方が、はるかに重要だ。
でも戯言と一蹴できるほど、僕は強くなかった。
もしかしたら嫌っているのではないか。
他に好きな人でもいるのではないか。
別れるように半ば強要された僕の心から、元来の自信のなさが顔を覗かせる。
ネガティブな感情は巧みに心の隙間に入り込み、容易く僕の心を侵食した。
人の心ほど弱く、移ろいやすいものはない。
弱気な僕には、円の思いを信じきれなかった。
一緒にいたいから、一緒にいていいのかと変化していき、今では一緒にいて迷惑にならないかになっている。
延々と自問自答を繰り返しても仕方ない。
誰かが答えを教えてくれやしないかと、スマホでそれらしいワードを入力してみる。
けれども当然、都合よく出てはこない。
じっと画面に向き合っていると、頭がどうにかなってしまいそうだった。
やはり自分自身で、探す他ないのだ。
俯きながら歩を進めていると、いつの間にか自宅へ到着する。
悩みを抱えて開ける玄関の扉は、いつもより重たい気がした。
「亮、お帰り」
居間に向かうと僕の兄である啓太郎は、けだものの森に夢中になっていた。
円の6歳年下の妹、恵美香(えみか)ちゃんもやっている、幅広い女性層から支持のあるゲームだ。
彼女の欲しがっていたアメリカンショートヘアがモチーフの人気住民、ジョックをあげると嬉しそうにしていた。
話題だからという理由で始めたらしいが今日では僕の知る限り、兄貴が一番プレイ時間が長い。
「兄ちゃん、ただいま。母さんは?」
「買い出しにいってるよ。今日な、友達からアレ貰ったんだよ。よかったら食え」
アレとは僕の好物、ホワイトサンダーだった。
ビスケットをミルクチョコでコーティングした、しつこすぎない甘さでついつい口に運んでしまう、魔性のお菓子だ。
値段も手頃で、余った小銭があると購入してしまう。
昨日の僕なら、喜んで飛びついていただろう。
「ああ、ありがとう。美味しいよ」
「……なんだよ、元気ねぇな。学校でいじめでもやられてんのか?」
「……別にそんなこと、あるのかな。僕は臆病だし、いい標的にされてるよ」
「ま、そういうクズも世の中にはいるよな。いざって時は俺が殴って言うこと聞かせてやっから、遠慮せず言えよ」
握り拳を突き出すと、大きく身体をのけぞらせて笑い出す。
大して詮索してくることもなく、親には話せないことも言葉にできる。
どうして兄弟で、こうも性格が違うのだろう。
普段ならば、違いを認められた。
でも弱気な今は、少しだけ兄貴の楽観的な部分を分けてほしかった。
「兄ちゃんが絡むと後々面倒なんだからいいって」
「せっかく円ちゃんと付き合ったのに、暗いからよ。お前、昔からあの子一筋だったろ」
「えっ」
もう耳に届いているのか。
相変わらず、敏感だな。
「なんで知ってんの。僕、何も言ってないんだけど」
「今日スーパーで、偶然円ちゃんに鉢合わせてな。昨日から付き合い始めたって聞いたんだよ」
「バレたら隠してもしょうがないね。生まれてきて一番幸せかも」
「……そっか、ならよかった。お前がよほど馬鹿やらかさない限り、俺は味方だからな」
「畏まって気持ち悪いな。明日は槍でも降りそうだ」
「なんだと、人が心配してやってんのに。気ぃ遣って損したぞ」
いつもとは違う兄の口振りから、円は悩みを相談をしたのだと僕は察する。
それか不幸でも起こったか、訊ねたに違いない。
別の学校に通っているから、今朝の出来事など知るはずもなかった。
根っから明るい性格通り、回りくどいのは苦手だ。
だから円と会ったことはあえて隠さずに、僕に聞いてきたのだろう。
他ならぬ彼女の頼みなら、無下にはしないはずだ。
僕が長年に渡り、好意を抱いてきたのを知っているから。
それにしても、気を利かせるなんて。
いや、血の繋がりがあるからこそ気恥ずかしいのかな。
不器用な優しさを感じながらチョコを頬張ると、甘みが舌によく沁みる。
「甘いもの食べたら、しょっぱいのが欲しくなっちゃったな。堅すぎポテト買ってくるよ。兄さんも食べる?」
「マジで!? 俺、好きなんだよなぁ。噛みごたえあってさ」
「……今日はありがとう。ちょっと気が紛れた」
そう伝えると、兄貴の物憂げな表情は多少晴れていた。
自分の問題に、巻き込む訳にはいかない。
玄関の出入口で靴紐を直しながら、僕は決意を新たにするのだった。
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