第2話 手の届かない存在

「円と別れてよ」


告白した翌日の朝。

一限目が始まる数分前。

用を足してトイレから教室に向かう途中、円の友達である赤松菜穂さんは出会い頭にそういった。

漆を彷彿とさせる艶のある黒髪を棚引かせて。

知らず知らずの内に、彼女の気に障るようなことでもしただろうか。

それでも別れろと言われて、はいそうですかと了承できるほど、軽い気持ちではない。

やっとのことで思いを届けて実った、僕と円の恋心。

部外者になど邪魔されてたまるか。


「突然すぎて、意味が分からないんだけど。順を追って説明してくれないかな」

「円はね、顔立ちは地味だけど明るくていい子なのよ。根暗でナヨナヨしたアンタには勿体ない子なの。あの子はアンタにとって夜空を瞬く星。つまり手の届かない存在ってことよ」


訊ねると、彼女は次々に円への褒め言葉と、僕への悪口をまくしたてる。

普通なら怒号を飛ばしても、おかしくはない。

だが怒りよりも、驚きの感情が勝っていた。

よほど結ばれたことが気に食わないようだ。

友人として、円が心配なのは痛いほど分かる。

けれども僕との恋仲を裂く権利など、どこにあるのだろうか。

肝心の円の意思を、この子は汲んでいるのか?

僕らが身勝手だというなら、この子だってそれ以上に身勝手だ。

困惑していた最中は聞き流せていた台詞の数々に、次第に憤りが募っていく。

こういう女子にははっきり、ガツンと言い聞かせないと。


「……ま、円のこと幸せにしてみせる。もういいでしょ、この話は」

「はっきり喋れよ、キモ男。そういう優柔不断な所が不愉快なの」


でも臆病者は、どこまでも臆病者だ。

意を決して放った言葉さえ、どもって上手く喋れない。

その弱々しさに漬け込んで、赤松さんは間髪入れずに毒を吐いた。

優柔不断。

それくらい、誰にだってある欠点じゃないか。

なんでここまで、罵倒されなければならないんだ。

女子というのは基本、嫌いな男子に辛辣に当たってくるものと、ある程度割り切ってはいる。

こういう経験だって、一度や二度ではない。

とはいえ、あまりに酷すぎやしないか。

人が大人しくしてれば、いい気になりやがって。

僕の心に燻る、異性への憎しみという種火は、着実に勢いを増していく。

そして今にも爆発してしまいそうなほどに、燃え盛っていった。


「なっち、亮ちゃ~ん! 何話してるのぉ~」

「いや、円のことについて、聞いてたんだ。ねっ」

「なっちと仲良かったっけ。会話してるの、初めて見たけど」

「……」


喧嘩していたのが知られれば、円と彼女の間に軋轢が生じてしまいかねない。

気を利かせて誤魔化すと、その様子を彼女は気の立ったネコの如く、まじまじと眺めている。

余計な発言はするなよ。

獲物を見据える蛇のような彼女の眼には、そんな感情が込められていた。


「どうしたの? 元気ない?」

「あ~、昨日が最高の日だったからかなぁ。後は気分が落ちる一方だよ」

「亮ちゃんたら。上手なんだから」


嘘だった。

学園生活を謳歌するには必要な嘘だ。


「ごめんねぇ。二人で話してたの、邪魔しちゃって」

「いいのよ、円。じゃ、私はもう行くね」


溜め息を一つ零すと全身に張り詰めていたものが、どっと抜けていく。

人と接するのは、多大な気力を要する。

それが嫌いな人間なら尚更だ。

切れ味が落とさぬため刃物を研ぐように、神経をすり減らす学校での日々。

根っから明るい人間でもない限り、この苦痛には耐えられそうにない。


「ハァ……疲れた」

「女の子慣れしてないもんね、亮ちゃん」

「ハハハ、僕の女っ気のなさは円が一番よく知ってるもんな」


そうだ、円さえ隣にいてくれればいいんだ。

口元を抑えて笑う彼女に、僕は微笑み返す。

この幸せだけは絶対に手放さないと、胸に誓いながら。

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