夢ノ国奇譚

千暁

王子様との約束

 私の旅の道連れは王子様。何か悪い冗談みたいだけれど、呼び名の通りに一国の王子なのだから他に言いようがない。

 

 私と王子様、それぞれに馬を引いて、冬が迫り来る山を降りている。のんびりとした歩みだけども、落ち葉を踏み分け進む古い道の先には悲劇が待っている。


 巨匠が丹精した芸術品のようなこの完璧な王子様は、この後、私の命を救うために自分が犠牲になるつもりでいる。どんなに思考を巡らせてみても、ふたりとも幸せになれる方法は私には思い浮かばなかった。


 私を殺そうとする追っ手は背後から迫っている。けれどその刃を逃れるために私のいた国へ戻れば、彼を殺す人々が待つ。


 短いけれど激しい攻防の末、私を生かし、自分が死ぬと決めたのは王子様だった。私がどんなに泣いても駄目だった。彼の決意は固く、どうやっても動かせなかった。


 決断の時は過ぎ、選択はなされてしまった。もう引き返すことはできない。わかっていても、もしもという考えが私の胸の中で渦巻いて、いつまでも熾火のようにくすぶっていた。


 煮詰まった想いに耐えきれず振り返ると、そこには秋の穏やかな太陽と澄んだ風を受け、蜂蜜色の髪が光を弾いてきらめいていた。豊かな海のような青い瞳が微笑んでいる。困難極まる逃避行を経て汚れてしまった軍服も、その均整のとれた容姿を損なうことはできていなかった。泣きたくなるほど、何もかもが馬鹿みたいに美しい人だった。


 おとぎ話のような甘い恋物語がよく似合う美貌ではあったけれど、でも彼と私の間で大事だったのは、大声で遠慮なく言い合ったり、下らない冗談で大笑いしたりできる、他の人にはなかなか見せられない素顔の自分たちを分かち合えることだった。


 数時間後にはおそらく永遠に失われてしまう大事な人の顔をじっと見つめる。無性にそのかけがえなさが胸を貫いて、馬を止め、王子様に近づき、そっと不意打ちのキスをした。唇にかすめるように、ちょっとだけ。彼特有の肌の匂いをわずかに感じて、自分で自分のしたことに驚いて、あわてて「あ、ごめん」と言って飛び退いた。


 私から口づけたのは初めてのことだった。相手の好意はすでになんとなくはわかっていて、あ、いや、なんとなくしか理解できないというのは問題だと散々怒られたことなのだけど、迷惑じゃないだろうことはさすがに予測できていた。ただ、それがどの程度大丈夫なのかがよくわからなかったのだ。


 王子様はさすがに王子様だけあって、間の抜けた白紙状態の驚きからはすぐに立ち直り、手慣れた優雅さで思いっきりキスを返してきた。大きな手で私の頭をがっちり支えて、時間をかけて、衝撃と動揺で私の記憶が吹き飛ぶくらいの濃厚な口づけをした。


 そして超至近距離でこちらの目をじっと捉えながら、楽しそうな茶目っ気たっぷりの瞳で「今度会ったときには最後までしような」とささやいたのだ。


 頭の中は大混乱だった。声にならない悲鳴を上げて、体中が燃えたみたいに赤くなった。


 するってことは、つまり結婚するってことにも繋がって、そうすると王家や貴族のあれこれや権謀術数のいざこざの中に入っていくことも意味するわけで、もしそうなったとしても私なら乗り切ることができると見込まれたって話なわけで、いや、でも遊びという可能性は、ああ、それはない気がするし、一回で終わりそうな雰囲気でもなさそうだけど、だからといってちょっと関係したからって、すぐに結婚に結びつける必然もないわけで、私の側からの拒絶があったっていいわけで、そうなると権力闘争から遠い愛人や側室って立場も選べるわけで、気をしっかり持って、私! 心のままに振る舞ったって、きっと大丈夫だよ、私! なんとかなるよ、私! って、一瞬で脳内をものすごく迷走してしまって、笑ったよ。


 こんなにも具体的にふたりで生き残る未来のことを考えて、真剣に思い患ったことに笑ったよ。だって状況は何一つ変わらず、彼の生存は絶望的なんだもの。


 なんだかもう肩の力が一気に抜けて、だから私は満面の笑みで「いいよ」って答えた。そこに私が彼を本当に愛した理由、私の緻密な未来予想図を簡単にひっくり返してしまう、どこまでも晴れわたった青空のような希望があったから。


 本当に、得難い人だったのだ。稀代の巫女と呼ばれた私より、ずっと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夢ノ国奇譚 千暁 @1000dawn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ