失意と孤独のなかで「パラン氏」②

 パラン氏がドアを開けると、そこには妻とリムザンが一緒に立っていました。


「なんであなたがドアを開けるの? ジュリーは?」

「クビにした」

 

 パラン氏は妻に問い詰められ、ジュリーが奥様にキレて失礼な口をきいたのだと説明します。そうとしか言いようがないですよね。

 妻は自分が非難されることに我慢がならないので、夫の言葉の揚げ足をとり、むきになって言い返します。


「帰りが遅いからって何なの? あんな女に好きなこと言わせとくなんて、あなたってほんと腑抜け。でもざまあみろだわ。追い出されるなんて、あの女、よっぽどのことを言ったんでしょうよ」


 はい、よっぽどのことを言いました。夫はそれを告げることができませんが。

 そこへリムザンがしれっと「やあ、こんばんは」と今さらのように握手。

 二人は街で出会って、軽く食べてきたということですが、ジュリーが用意しておいた夕食を前にすると盛大な食欲をみせます。

 ──本当は別のことをしてたんじゃないのか。

 疑心暗鬼の夫は食事も喉を通りません。隣に平然と座っている男は、もしかしたらジョルジュの父親かも知れないのです。

 ふとジュリーの言葉が蘇ります。

 ──ご自分の目でお確かめなさい。


「ちょっと失礼。少し出かけてくる。遅くなるかも知れない」


 そう言い残して部屋を出ました。

 残された妻とリムザン。


「君、もうちょっと旦那に優しくしたらどうだい。あまり冷たくすると疑われるぞ」

「ふん、私はあの人のバカさ加減にうんざりしてるのよ」

「バカだから都合がいいんだろう。バカのお人好しだからこそ僕たちの関係が怪しまれる心配もない。いい旦那じゃないか」


 パラン氏を侮辱し、笑い者にしながら、邪魔者のいないところでラブシーンを繰り広げようとした、そのときです。

 キャー!

 妻はドアのところに立っている、怒りに狂った夫の顔を見てしまったのです。出かけるふりをして隠れ、ずっと二人の話を聞いていたパラン氏は、リムザンにつかみかかり、妻を突き飛ばし、大乱闘を繰り広げます。


「貴様ら……出て行け! 今すぐにだ! でないと殺してやる!」


 バレてしまったものは仕方ありません。妻は開き直り、


「出て行くわよ。でもジョルジュは私が連れて行きますからね」

「なんだと、浮気したうえに子どもまでとは……図々しい!」

「だって子どもですもの。あなたのじゃない……ジョルジュはリムザンの子よ!」


 妻の言葉に逆上したパラン氏は、寝室へ行き、眠っているジョルジュをシーツごと抱えて妻に押しつけ、二人を追い出すとそのままドアを閉めてしまいました。

 そして、ひと晩ですべてを失った男は、その場でがっくりとくずおれたのでした。



 それからのパラン氏の日常は、孤独一色に染まってしまいました。醜聞を避けるため、妻に生活費を送る手筈を整えた彼は、また独身時代のように自由に過ごそうとするのですが、時間が経つにつれて可愛い息子との思い出に苦しめられるようになるのです。

 夜ひとりでいると「パパ!」という声が聞こえてきて思わず玄関を開けてしまう。外に出ても、すぐ横を息子が歩いているような気がして、道端で泣き出してしまう。高い高いもお馬さんごっこも、柔らかいほっぺも、「パパ好き」のチュッをしてくれる小さなお口も、何もかも消えてしまった。

 冒頭から息子を溺愛するお父さんとしての彼がたくさん描写されているため、ジョルジュを連れて行かれた姿が非常に痛々しいです。そして同時にジョルジュが自分の息子じゃないかも知れないという疑念も一緒に膨らんでいきます。自分の子だとしても、他人の子だとしても、どちらにせよ大きな喪失でしかないという二重の苦しみ。


 孤独に耐えられない彼は、人混みと酒で苦しさをごまかすようになりました。街の喧騒に紛れ、騒々しいブラッスリーに朝から閉店まで入り浸る日々。ついには地獄のような自宅から逃避し、ホテルの一室に住み始めます。

 このパラン氏の日常をモーパッサンはしつこいほど綿密に描いています。喧騒と酒でごまかすほど広がっていく心の穴。空虚さだけが蓄積されていく年月を、読者にも追体験させるような主観的な語りです。


 そうして5年も経ったころ。

 パラン氏は街の中で偶然、幸せそうに歩く3人の姿を見てしまいます。幼かったジョルジュはもう顔が分からないほど成長し、目が合った知らないおじさんをじろりと睨みつけるのです。

 自分は他人になってしまった。

 可愛いジョルジュの思い出は、遠い過去のものとなって消えてしまいました。


 パラン氏はパイプの煙の中で歳をとり、ガス燈の下で禿げていきました。もうあの夜のことを思い出すこともありません。抗うこともなく死に向かっていく日々。日ごとに薄くなる頭をもたせかけるブラッスリーの壁の鏡だけが、哀れな男を呑み込みながら逃げるように過ぎ去る時間の残酷さを映し出しているのでした。


 そしていつしか、20年の月日が経っていました。


「ムッシュ、パリに閉じこもってばかりじゃだめですよ。たまには田舎に出かけて新鮮な空気を吸わなきゃ」


 心優しいブラッスリーの店員が毎日のように心配してくれます。最初は聞き流していた彼も、そのうちちょっと出かけてみようかという気になり、パリ郊外の人気スポットへ散歩に行くことにしますが……。


 つづきます。

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