妻に騙されていた夫「パラン氏 Monsieur Parent」①

 モーパッサンは生涯を独身で通しましたが、実は隠し子が何人かいると言われています(複数形)。 先生の作品に、父親を知らない子どもや不貞の末の子どもがよく登場し、そして同時に父性についての話が頻繁にあるのは、もしかしたら先生個人にとっても大きなテーマだったからかも知れません。

 この中編もそういった物語のひとつです。



 舞台はパリ。夕暮れの公園にはたくさんの子どもたちがいて、お喋りをする母親ややる気のない女中に見守られながら無邪気に遊んでいるところです。3歳のジョルジュ君もしかり。よつん這いになって、せっせと砂遊びの真っ最中。

 その様子をかたわらのベンチに座って見ているのは、お父さんのパラン氏。ジョルジュ君のどんな仕草も見逃すまいと、愛情たっぷりの目で見つめています。


 40歳のパラン氏はランティエと呼ばれる身分です。これは財産とか不動産収入とかがあって、働かなくても生きていける人ね。パラン氏は年収2万フラン。1フランを千円で計算すると2千万円ですね。けっこうリッチじゃないですか。

 ぽっちゃりとしたお腹で何不自由なさそうですが、髪にはもう白いものが混じり、いつも少し不安そうな顔つきをしているのは、その結婚生活に理由があります。そうです、奥さんが怖いのです。

 5年前にベタ惚れで結婚した若い奥さんは、今やモラハラの権化になって、何かといえば夫を責め立てるようになってしまいました。彼のすることしないこと、趣味から仕草から醸し出す雰囲気、さらにはそのぽっちゃり体型や穏やかな声まで、何もかもが気に入らないのです。

 それでも彼は奥さんを愛していました。でももっと愛しているのは息子のジョルジュ。モラハラまみれの毎日の中で、小さなジョルジュだけが唯一の喜びであり、生き甲斐でした。


 公園で遊ばせているうちに遅くなってしまったパラン氏は、妻が帰ってくる前に帰宅せねばと大急ぎでジョルジュを抱えて走ります。汗だくで玄関のベルを押すと、女中のジュリーがドアを開けました。


「奥様は、もう、帰っているかい?」

 おそるおそる訊くと、

「奥様が6時半前に帰っておられることなんていつからありましたっけ?」


 肩をそびやかし、苛立ちを隠さないジュリー。彼女は親の代から仕えているので、この家のことはすべて仕切っていて、女中といっても陰の支配者みたいなところがあるんですね。彼女は奥様と犬猿の仲です。折に触れては奥様を非難します。この二人の一触即発の空気は、パラン氏にとってもうひとつの重たいストレスなのです。


 お風呂に入ってさっぱりしたジョルジュ君がやってくると、ほっとして抱き上げるパラン氏。

 ──ああ、私にはこの子がいてよかった。

 可愛い息子にほおずりして、高い高いをして、お馬さんごっこをして……。無邪気な笑い声をあげる顔を見ることだけが癒し。


 しかし、この夜はその優しい時間がぶち壊しになるようなことが起こりました。

 8時になっても帰らない奥様。日頃の鬱憤が溜まりに溜まったジュリーは、ついにパラン氏にこう切り出すのです。


「旦那様。私はご家族に尽くしたい一心で、旦那様がお生まれになったときから今日まで仕えてきました。嘘をついたことなどありません。ですからこれから私が言うことは旦那様のため。これだけは申し上げておかなければ。……いいですか。奥様がこんなに遅くお帰りになるのは、不貞を働いているからです」


 パラン氏は突然の暴露に動揺を隠せません。


「なにを言っている……?」

「このへんの人たちはみんな知ってますとも。ご存じないのは旦那様だけ。奥様はご友人のリムザン様とずっと浮気しているのです。ご結婚されたその日から」

「馬鹿な……!」


 リムザンとは昔からのつきあいで、家族ぐるみの付き合いをしている唯一の親友です。


「あの女はお金のために旦那様と結婚したんですよ。リムザン様がお金持ちだったら旦那様となんか一緒になりやしなかった。だからあんなに冷たい仕打ちをなさるんです!」

「やめろ!」


 頭に血がのぼってジュリーに殴りかかるパラン氏。しかしジュリーは主人を真正面に見据え、何よりも恐ろしいことを口にするのです。


「旦那様をお育てしたこの女中を殴るんならお殴りなさい。でも奥様の不貞と、ジョルジュ坊っちゃんが旦那様の子どもじゃないという事実は変わりませんよ! よおく見てごらんなさい。坊ちゃんはリムザンにそっくり!」

「出て行け! この屋敷から出て行け!」 

「すぐ出て行きますとも。私の言ったこと、ご自分の目でお確かめなさい」


 そう言い残してジュリーは本当に出て行ってしまいました。

 

 二人の口論で泣き出してしまったジョルジュを抱いて、鏡で自分たちの顔を見比べるパラン氏。ショックと怒りで頭は混乱したままです。私たちは本当の親子だろうか。私たちは似ているだろうか。まさか、ジュリーの言ったとおりリムザンの子だったら……。

 そんな馬鹿な! ああ、私のジョルジュ。私の可愛いジョルジュ。


 混乱と不安に気が狂いそうになり、泣き出すパラン氏。

 そのとき、玄関のベルの音が。妻が帰宅したのです。

 さて、彼はどうするのでしょう。


 つづきます。

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