ボートの上での一夜「水の上 Sur L'Eau」

 ボート大好きモーパッサンは、船にまつわる話も色々と書いています。もちろんフィクションではあるんですが、その中には体験談的な要素も多分に含まれています。先生の視点で眺める水の上の光景が、五感に迫る臨場感と現実味を持っているのは、船に乗る人の経験値と感性ならではなのかもしれません。

 特にこのお話のように、たったひとり川で一夜を過ごすときは、こんなことが起こり得るかも……?



 その男はボートの上で生まれてボートを漕いでる最中に死ぬんじゃないかというほどの熱狂的なボート乗り。彼の縄張りはモーパッサン自身も常連だったパリ郊外のセーヌ河です。

 男は川を語らせたら詩人です。この流れる水に壮大なロマンを抱いています。


「道から川を見下ろしているだけでは本当の川を知ったことにはならない。川とは蜃気楼と幻想の世界。夜になれば存在しないはずのものが姿を現し、聴いたこともない音が聴こえる。まるで墓場を通るときのような身震いが襲うのだ。そうだ、川は墓のない墓地なのである。そして月のない夜、川は無限に広がるのだ」


 ついでに彼は海と川を比べて、波の荒れ狂う海とは違う、川の静けさ、そのたたずまいにこそ本当の恐ろしさがあると言います。


「川岸の葦が揺れ動き、ささやくような音を立てるとき、そこには激しく波立つ海よりも不吉で不穏なものがある──」


 さて、その夜も彼は愛用のボートに乗っていました。空気は爽やかで月の光が水面を輝かせています。ちょっと一服するには最高のシチュエーション。ということで、男はボートを停めていかりを降ろします。

 ところが彼を包むのは冷ややかなほどの完全な静けさ。カエル一匹鳴かないしんとした空気。くつろぐどころかほんの少しの船の揺れにすら不安な気持ちになった彼は、やっぱり帰ろう、と錨を上げようとします。

 が、底で何かが引っかかっているのか、錨はうんともすんとも動きません。船の向きを変えても色々やってもまったく駄目。

 しようがない、きっとそのうち他のボートが通りかかって手伝ってくれるだろう。そう思ってラム酒をひっかけ、星の下でひと晩明かすのもオツなもんさ、なんて寝転がるのですが。


「ひいっ!」

 ボートにこつんと当たっただけの木片にも冷汗が出る始末。いったいどうしちゃったのか。しかも辺りは真っ白い霧が出てみるみる深くなり、自分の足もとさえ見えなくなってきます。

 不安をかきたてる状況の中、男の頭には奇妙な幻想が浮かび始めるのです。


 これは、もしかして誰かが船の上によじ登ろうとしているんじゃないのか。船の周りを得体の知れない生き物に取り囲まれているんじゃないか──。


 恐怖に駆られた男は泳いで逃げようかと考えますが、この深い霧の中ではまず川岸にたどり着くことはできません。

 夜の川でたったひとり、怖ろしさに負けそうになる自分と打ち勝とうとする自分との戦い。でも恐怖の方がどんどん男を支配して行きます。彼はラム酒を飲むと今度は大声で叫び始めました。しかしそれに応えるものはなく、ずっと遠くで犬の遠吠えが聴こえるだけ。


 眠りもせず、目を見開き、耳をそばだてて全神経をこの悪夢との戦いに集中させ──。

 一時間、いや二時間は経ったでしょうか。男の前に信じがたい光景が見え始めました。 

 それはどこかの旅人が語るような妖精の国の景色。さっきまでの霧が消え、遮るもののない両岸の丘は月光で雪のように真っ白に輝いています。その丘の間には炎の金糸を織り込んだ川。頭の上には巨大な満月が青く光り、カエルたちは突然目を覚ましたかのように一斉に鳴きはじめます。突然のシュールな情景。まさかラム酒でキマッてしまったわけでもないだろうに。

 現実か幻想か分からない景色に恐怖心もすっ飛んだ男は、いつしか眠りに落ちていました。


 気がつくとすでに月は沈み、空には一面に雲がかかっています。葦が風に揺れ、水の流れる音が陰気に聴こえるだけ。まるで不吉なものを呼び寄せるような、暗く、凍てつく朝の川。

 そのとき一人の釣り人が船で通りかかりました。ああ助かった。事情を話して二人で錨を引っ張りますが、やっぱり動きません。次にやってきたボートにも助けを求め、三人がかりでようやく引き上げます。すると、錨には大きな黒い塊が引っかかっていて──


「──それは、首に石をくくりつけられた老婆の亡骸であった」



 ぎゃ───!!


 幻想的なお話かと思ったら最後はホラーじゃん! 

 男が体験したことはなんだったの? 現実か、それとも老婆の仕業か?

 そもそもなぜここに遺体が?

 もう色々とモヤモヤしたままで終わります。どうぞご自由に想像してください。

 オチのインパクトに持って行かれますが、どんなベテランのボート野郎でも「墓場」のような夜の川には呑まれるものがあったのでしょう。冒頭にあった不穏な静けさという言葉に説得力を感じます。


 ちなみに、「水の上」というタイトルの作品はもうひとつあって、これは先生が自家用船「べラミ」(←自分の小説の名前)で地中海あたりを旅行したときの紀行文。こちらはまったく趣の違う作品で、タイトルをダブらせてまで水の上を愛した先生のもうひとつの顔が覗けますよ。

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