忘れられないひと「野あそび」②

 ダブルデート状態になったボート野郎と母娘。あとで落ち合うことにしてそれぞれのボートに乗り込み、漕ぎ出します。


 娘を乗せたボートはゆっくりと進んでいきます。というのは漕ぎ手の男がもう舞い上がってしまって、娘ばっかり見てるから。さっきの筋肉自慢はどこへ行った?

 娘は娘で、ボートに揺られてセーヌ河をゆくという非日常なシチュエーションにうっとりとしております。さっき飲んだワインが体の中で沸いているかのよう。何も考えず、手足も、自分自身さえも投げ出し、ただこのひとときに浸っていたい。それはこの日差しのせいか、それとも若い男と二人きりだからか。顔は赤くなり心臓はドキドキ。


 男はやっと勇気を振り絞って彼女に名前を訊きます。すると、

「アンリエットよ」

「へえ、僕はアンリ」

 わあステキ、おそろいの名前だねッ。

 とりあえず少し気が楽になった二人。そこへどこかから鳥の鳴き声が。


「おや、ナイチンゲールだ。昼間に鳴いてるってことはメスが卵を孵しているんだ」


 ナイチンゲールですって?!

 アンリエットの乙女心に火が灯りました。なんてロマンチック、そばで聴いてみたい。

 若者は小さな島の岸辺に船を着け、自分の「隠れ家」へと娘を案内します。それはこの場所を熟知している人じゃなきゃ来られないような、蔦や蔓で覆われた草むらです。並んで腰を下ろし、ナイチンゲールの歌声に耳を澄ます二人。

 河に沿ってずっと空の彼方へと響き渡る歌声を聴いているうちに、彼女はまたもや恍惚としてきました。この状況に身を委ねることで、眠っていた何かが解放されていったのでしょうか。感極まって涙をこぼすアンリエットを見て、男は理性を失い──。


 ──優しい風が葉を揺らし、ささやくような音を立てた。枝の奥から聴こえるふたつの熱いため息が、ナイチンゲールの歌声とそよ風に重なった。


 草むらの中で結ばれる二人の描写がナイチンゲールの歌によって表現されていきます。最初は控えめに、しかしそのうち大胆に、情熱を帯びて。

 

 ──まるで炎が燃え上がるごとく、酔いしれた鳥はその声を速めていく。そしてタガが外れたようにのどを解き放ち、激しく狂い鳴いた。あるときは痙攣するかのように、気が遠くなるほど長い旋律を震わせた。

 時おり息をつき、か細い声を2、3度洩らしたかと思うと、鋭い音を発して尽きた。あるいは我を失い、まるで熱烈な恋の歌を絞り出すように震えもがいたあと、最後に勝利の雄叫びを上げた──。


 途中から鳥の歌とは思えなくなってくる官能的な描写です。当時ベッドシーンなど書くと逮捕案件だという理由もあるでしょうが、歌声とリンクさせることでかえってエロティシズムを感じてしまいます。


 しかし。

 娘の静かな嗚咽によってナイチンゲールは口を閉ざしました。草むらのベッドから出てきた二人の間には、まるで敵同士になってしまったような気まずい空気が流れているのです。それは罪悪感か、後悔か。

 アンリエットは歩きながら母を呼び続けます。すると別の草むらからあたふたと登場するもう一組のカップル。母は上気して目がらんらんとしております。この二人が同じことをしてたのは明らかですが、悪びれもせずアヴァンチュールをする母と、初体験に涙する娘の様子がまたもや対照的です。

 親子はボートで家族のもとへ戻り、何事もなかったかのようにパリへ帰って行ったのでした。


 それから2カ月後。

 パリを歩いていたアンリは、たまたま通りで「金物屋・デュフール」の扉を見かけました。思わず店へ入るとそこにはあのお母さんがいます。

 挨拶のあと勇気を出して、


「あの、アンリエットさんは、お元気ですか」

「ええ、元気ですよ。結婚しましたの」


 ええっ!!

 アンリはショックを隠せません。


「えっと……誰と?」

「あのとき一緒にいた若い子よ、お分かりでしょ」


 あの黄色い髪の男?! あれはフィアンセだったのか! モブだと思っていたらまさかの伏兵……!

 傷心で店を出ていくアンリには、「お友達によろしくね♡」というお母さんの声はもうどうでもよかった。


 傷心は1年続きます。アンリは未練たらしく翌年また例の隠れ家へ戻ってきます。

 すると、なんということでしょう、そこには悲しげな顔で佇むアンリエットがいるではありませんか! 隣りには黄色い髪の男がぐっすりお昼寝中です。

 二人は驚きを隠し、自分たちの間に何もなかったかのように会話を始めます。でもアンリの気持ちは抑えられません。やっぱりこの場所が、あのひとときが忘れられないと告白してしまうのです。

 すると彼女はアンリをじっと見て、


「私も、毎晩あのことを思い出しているのよ」


 見つめ合う二人──。

 しかしそのとき、隣りの夫があくびをしながらこう言うのです。


「さ、お前、そろそろ帰る時間だよ」


 ここで終わってしまう残酷。「連れて逃げろ~」と思う間もなく幕が下ります。ああ無情。

 間違いと分かっていても忘れられない人。そういう人に限って結ばれない皮肉ですね。

 非日常の場所で開放的な気分になるパリジャン家族の描写が滑稽な分、若い純情が美しく見えます。切ない終わりが印象的なのですが、どうなんでしょう。この娘もあと20年したらお母さんのようになっちゃうのかな、とも思ったり……。その想像はしないほうがいいのかなあ……。

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