SOSドクターの大活躍「奇策 Une Ruse」
お医者様というのはなにかと頼りになる存在ですが、お世話になるのは健康面ばかりではありません。時にはこんな夫婦の面倒までみてくれるかも……?
ある年老いた医者と、結婚したばかりの若い女性の患者が話をしているところから始まります。二人の議題は夫婦観について。
「先生、私には浮気をする女性の気持ちが分かりませんわ。どうして誓い合った相手をだますなんてことができるんでしょう? どうやって隠し通せるというのでしょう?」
嘘と裏切りにまみれて浮気するなんて不潔だわ、と理想論を掲げる患者を前に、医者は不敵な笑みを浮かべます。
「なあに、向こう見ずな欲望に駆られた時ってのはね、細かいことを考えたりできないものなんです。私なんかに言わせれば、女性は色んな男を知って結婚生活に幻滅した後で、ようやく愛に対して成熟するものだ。そもそも結婚生活なんて昼間は不機嫌を交わし合い、夜は悪臭を交わし合うにすぎないというじゃありませんか。女性は結婚してはじめて情熱的に愛することを知るんですよ」
辛酸をなめきった後でようやく本当の愛に目覚めるとか、けっこう苦いことを言ってくるドクター。しかも笑ってるし。
「それからね、隠しだてすることに関しちゃ女性は見事なものですよ。単純な人ほど、どんなヤバい状況でも天才的に処理しますから」
そして一例として自分の体験を語って聞かせるのです。ここからが本題。
それは田舎での出来事でした。夜ベッドでお休みのドクターのところに突然呼び鈴を鳴らす者がいます。取り次いだ下男が言うには「二人の人間の命がかかっている」とのこと。
招き入れた人間は、黒マントをすっぽりかぶって正体を隠した、この街でも美人で有名な大商人の若妻でした。
彼女はすっかり青ざめてこう言うのです。
「どうか早く家へ来てくださいドクター。私の部屋で……彼が……私の
夫の留守にあんた何やってんのと突っ込む暇もなくドクターは若妻の家へ。寝室に入ると、シーツやタオルやらが取っ散らかった中で若い男が真っ裸であおむけになって倒れていました。ドクターは間男を診察し、
「ご臨終です。服を着せますよ。急いで」
そこからは夫が帰ってくるまでの時間との勝負。巨大なお人形状態の死体にパンツを履かせズボンを履かせ、ベストを着せてやっとのことで上着に袖を通し……ああしんど。
若妻は彼氏の髪に櫛を通し、指で口ひげをくるっと丸めて。きっといつもこうやって身だしなみを整えてあげてたんでしょうね。そしてふいに恋人の顔を見つめると、最後の情熱を傾けてその動かない体を抱きしめ、口づけの雨を降らせ、まるでまだ彼の耳に届くかのように熱烈な愛の言葉をささやいたのでした。
しかし、そんな悠長なことはしていられません。時刻は真夜中。夫が帰ってくる時間です。
「居間まで運びますよ!」
妻と女中に手伝わせ、えっちらおっちらとソファに座らせたところで建物の門が開く音。ついに夫がご帰宅してしまいました。さあどうする先生?
「やあ、こちらへ来てくれ。大変なことになってしまったよ」
わざとらしく声をかけると、夫は葉巻をくわえたまま唖然として、
「なんだこれ? いったい何があったんだ?」
「いやね、この友人の車でこちらへお邪魔して三人でおしゃべりしてたんだが、急に彼が意識を失ってしまってね。悪いが階段を降りるのを手伝ってもらえませんか。うちに連れて帰った方がちゃんと診られるから」
なんのこっちゃ分からないまま疑いもせず、夫はライバル(絶命済み)を抱えてドクターと馬車まで運びます。御者の目をごまかすために、ドクターは死者に向かって、
「ほら、もう大丈夫だ、気をしっかり持つんだ。頑張れ」
と励まします。なんだこのシュールな状況。
馬車の中で倒れそうになったりひっくり返ったりしながらなんとか乗り込むと、何にも知らない夫が「深刻な容態ですか?」と親切にも心配してきます。そんな中、若妻といえば書類上の夫と腕を組んだまま、馬車の奥の暗闇(真実の恋人)をじっと見つめていました。
道中、死体が何度もドクターの右耳に倒れかかってきたのを除けば無事に間男の家まで送り届けることができました。ここでもドクターはもうひと芝居です。帰る途中で気を失ったことにして寝室まで運び、ここでやっと正式なご臨終を伝えることができました。
長~い夜のあとでようやく自分のベッドに戻ることができたドクター。もちろんこのはた迷惑な恋人たちに悪態をつきながらですが。
話を終えてまだ笑っているドクターに、若い患者が訊きます。
「どうしてそんな怖ろしいお話を私になさるんです?」
するとドクターは慇懃にお辞儀をしながら、
「何かの時にお役に立てるかと思いましてね」
おしまい。
ドクターの機転の早さだけが際立って、「情熱的な愛に目覚める人妻」の部分はあんまりピンとこなかったんですけど、こういうのは本人たちのみぞ知ることですからね。しかし不倫妻が持つべきものは、頼りになるドクターと何の疑いもしない凡庸な夫、ということでしょうか。
ドタバタ劇の回想も面白いですが、最初と最後だけに出てくる、結婚の理想を語る潔癖な女性に「きれいごと言ったって明日は我が身だよ」とやんわり刺してくるところが好きです。どんな魔が差すのか分からないのが夫婦。どちらかというと、これを言いたいがためのエピソードだったと言えるんではないでしょうか。
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