群衆によるセカンドレイプ「マダム・バチスト Madame Baptiste」
今回の短編は辛く重たい話です。実はお蔵入りにしようかと思っていたのですが、これもモーパッサンが描く社会の一部分ですので思い切って紹介することにしました。タイトルで敬遠する方もおられるでしょうが、無理のない範囲でお付き合いいただけたら幸いです。
ある田舎の町に来ていた男が、墓地へ向かう葬列に出くわしました。棺に付き添い歩く8人の男たちの中には司祭の姿がありません。男は気になり、葬列の最後尾の男性に話しかけます。
「お見受けするところ、これは教会葬ではないようですが」
「その通りです」
男性は答えました。
「亡くなったのは若い女性です。入水自殺したのですよ。だから教会での葬儀を拒否されたのです。先頭にいる、あの泣いている男が見えますか。あれが彼女の夫です」
それから男性は、故人の悲しい人生を語り始めました。
その女性はこの町でも裕福なブルジョワの子女でした。しかし、11歳の時、バチストという名の下男によって暴行されてしまいます。あやうく死にかけるところを助けられて事件が明るみに出たのですが、彼女は3カ月ものあいだ、ひと知れずこの男の犠牲になっていたのです。下男は無期懲役となりました。しかし少女には、レイプ被害者という「汚名」が残りました。
成長する間ずっと、少女はこの汚名に苦しんできました。友達はいません。大人は唇が汚染されるかのように、申し訳程度にしか額にキスをしてくれません。町の人は彼女を見てヒソヒソ囁き合います──ほら、例のお嬢さんだよ、知ってるだろ、あのこと──。
ほかの家の大人たちは自分の子どもが感染しないように彼女から遠ざけます。公園でもたったひとり。みんなと一緒に遊びたくて近づいて行くと、その途端ベンチから母親や女中が立ち上がり、ものすごい勢いで自分たちの子どもを連れ去って行きます。取り残された少女は女中のエプロンに顔をうずめて泣くだけ。
大きくなっても彼女を取り巻く環境は変わらず、むしろ悪化するばかりでした。目を伏せて通りを歩く彼女の背中には、自分でも説明のつかない恥という概念が常に重たくのしかかっていました。同い年の若い娘たちは蔑みの目で彼女を見てコソコソと噂をします。そして口汚いゴロツキは彼女をこう呼びます。
「マダム・バチスト」
そう、これはあの下男の名前です。人はこんなにも残酷なあだ名を口にすることができるのです。
両親にとっても彼女はお荷物でしかありませんでした。結婚相手など望むべくもなかった。話をすることも、笑うこともない、まるで徒刑囚のような閉ざされた人生。
しかし事態は好転します。新しく赴任した副知事の秘書が彼女にひとめぼれするんです。全ての事情を聞かされたその秘書の男は動じることもなく、結婚を申しこみ、ふたりは一緒になります。
初めて訪れた普通の生活。夫のおかげで彼女は少しずつ社会の一員としての誇りを取り戻していきます。夫婦は強く愛し合っていました。人々は事件のことを忘れてゆきました。そして、彼女が懐妊した時には、あれだけ冷たかった女たちが手を広げて彼女を迎え入れたのです。まるで妊娠によってその体が永遠に清められたかのように。
しかし、徒刑囚だった彼女に人生の扉が開いたのはほんのつかの間のことでした。
その日は守護聖人のお祭りで、沢山の人が広場に集まっていました。各村の吹奏楽隊が参加するコンクールがあり、知事による結果発表のあとでメダルを授けるのは秘書である夫の役目でした。彼女も妻としてその場に同席していました。
ですが。
こういったコンクールには必ず嫉妬がつきまとうものです。二等になった楽隊の指揮者は、その結果に腹を立てていました。夫がメダルを授けた瞬間、指揮者は怒りに任せてメダルを夫の顔に投げつけ、こう言い放つのです。
「お前さんにくれてやるよ、バチストのために取っておけ! いや、むしろバチストにやるのは一等のメダルかな?!」
その途端、会場に笑いの渦が巻き起こりました。そしてその眼はいっせいに「マダム・バチスト」に向けられました。遠慮のないあからさまな視線が彼女に集中します。
過去に引きずり降ろされた瞬間、とはまさにこのことでしょう。
彼女はパニックに陥りました。何度も立ち上がっては椅子に崩れ落ちます。今すぐ逃げ出したい、でもこの群衆の中から這い出すことは無理だと諦める気持ちが交錯しているように。
「おーい、マダム・バチスト!」
野次と同時にあっという間に群衆の中に話し声が広がっていきます。面白おかしく、興味本位に、侮蔑をこめて「あの話」が再現されます。
「その女」をよく見せてやろうと妻を持ち抱える夫たちまでいます。
人々は尋ね合います──どれだい? あの青いドレス着てる人──?
雄鶏の鳴き声(これには射精という裏の意味があります)を真似る者もいます。
波のような喧騒のなか、広場から広場へと笑い声が広がって──。
人々の好奇の目にさらされ、見世物になる妻。
ここから消え去ることも動くこともできず、顔を隠すこともできない。ただ痙攣したように瞬きを繰り返し、呼吸がどんどん速くなるばかり。
夫は暴言を吐いた指揮者に掴みかかりました。セレモニーは一転、乱闘騒ぎになってしまいます。しかし、騒ぎが収まった頃にはもう心が壊れてしまった妻は、夫が制止する間もなく川の中に身を投げ、自ら命を絶つのです──。
葬列の男性はこう言います。
「教会葬でない理由はね、自殺もそうだが、彼女の過去も関係があるのですよ。人というものは、そう簡単には忘れてくれないのです」
男は埋葬に立ち会いました。夫に声をかけると、彼は驚いた顔で振り返り、涙ごしにその顔を見て、「ありがとうございました」と礼を述べました。
了
集団になった時に人がふるうとてつもない暴力。それは一つの命など簡単に消すことができる威力を持っています。
モーパッサンは他の作品でも、個々の良心や信念が形を失くし、流れに乗せられてしまう危うい群衆の心理について警鐘を発しています。
でもこれは19世紀のフランスだけの話でしょうか。情報の手段が増えるほどにかえって群衆は増えているのではないでしょうか。他人の過去を掘り返し人目にさらす好奇の目、顔が見えないのをよいことに発される、口さがない噂話や嘲笑。
19世紀の作家が書いたこの話は、現代でも、おそらくどの国にも共通する、普遍的な群衆心理の恐ろしさを見せつけてくれるのです。
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