列車で出会ったひとときの叙情詩「牧歌 Idylle」
機関車が普及し、フランスの主要な都市のほか、外国への旅も昔よりずっと可能になった19世紀。モーパッサンの作品にも汽車のなかで起こる出来事を描いたものがありますが、これもそのうちのひとつです。
季節は初夏。イタリアのジェノヴァからフランスのマルセイユへ向かう汽車が、地中海に沿って海岸線を進んでいくところです。景色もさぞかしきれいだろうと思いますが、モーパッサンは嗅覚を刺激してきます。
開け放たれた窓からは、初夏の太陽がたっぷりと照りつけ、オレンジやレモンの花の甘く柔らかな香りがいっぱいに流れ込む。それと混ざるように、線路のわきに咲き乱れるバラの花がまた強く軽やかな香りを放っている。砂糖菓子のように甘く、ワインのように酔わせるかぐわしさ──。なんかこう、力が抜けていくような、まさに香りに酔わされるような情景です。
さて、最後尾の車両には、たまたま一緒になった若い男と女が座っています。
女は25歳ぐらいでしょうか。大きな胸で肉づきのいいほっぺたをした、いかにも丈夫そうな田舎の女。
男の方はせいぜい20歳。痩せて、肉体労働者だとひと目で分かるほど焼けています。荷物といえば着替え一式の入った風呂敷と、仕事道具であるシャベルとつるはしだけ。
彼らは時々お互いにチラッと視線を向けながらも口をきくことなく、窓の外を眺めたり、目を閉じてみたりしていました。
女は額に汗をかき、少し動くのにもふうふう息をついていましたが、そのうち自分のお弁当を広げ、旺盛な食欲で平らげました。男がじっと見ていると、今度は窮屈そうに胸のボタンを外し始めます。大きな胸の圧力で開いた生地の間からのぞく肌。ちょっと目のやりどころに困る眺めですが、彼女はまるで気にしない様子。
「こう暑いと息もできないわ」
イタリア語で男に話しかけます。
「旅にはいい天気ですよ」
同じくイタリア語で答える男。同郷だということが分かってから、二人の間に会話が始まります。
女は結婚して子どもも3人いますが、イタリアからフランスへ、乳母として雇われて行くところでした。
昔は母親が母乳で育てるのではなく、乳母が赤ちゃんの面倒を見るのが一般的です。なので田舎の女性にとっては、自分の子どもを家族に預け、お金持ちの家で乳母として奉公するのはいい出稼ぎだったのです。
しかし乳が出すぎるのも大変なようで、こうして列車で移動している間にもどんどん胸が張ってくるのが苦しいのだと男に訴えます。
「昨日から乳をやってないから胸が張ってしまって、気が遠くなるほどめまいがするわ」
男も同じようにフランスへ仕事を探しに向かう途中でした。イタリア人同士、打ち解けて話し始めたものの、いきなり乳の話をされても……ちょっとリアクションに困りますね。なんと答えればいいのやら……。
それでも列車の旅は続きます。時間がたつにつれ、女の具合は悪くなるばかりです。母乳を出せないってこんなにも辛いんですね。脂汗を流し、息も絶え絶え。
「ああ神様、苦しい。どうしたらいいの。どうしたら……!」
彼女は痛みをこらえきれず、思わず胸元をはだけました。大きく張った乳房が目の前に現れます。
男は恐る恐るこう言いました。
「あの……よかったら、僕に……僕に手伝わせてください」
「どうかお願い。もう耐えられないの」
手伝うって、一体どうすると思いますか?
なんと男は女の前にひざまずくと、彼女の手に導かれるまま乳房に吸いつき、乳を飲み始めたのです。彼女の腰に腕を回し、ゴクゴクと喉を鳴らして。その様子はまるで赤ん坊のようです。
「こっちは大丈夫。もう片方もお願い」
言われるままに、もう片方の乳も飲み干していく男。
その背中を両手で抱きながら、女は初めて車窓から漂う花々の香りに気がつきます。
「ああ、なんていい香りなんだろう」
男は答えませんでした。ただもっとよく味わおうとするかのように目を閉じて、恍惚として肉体の泉から乳を飲み続けていました。
「助けて下さってありがとうございました。すっかり生き返った心地です」
男にたっぷりと乳を飲んでもらった女は、やっと笑顔を取り戻しました。
すると男は感謝を込めてこう返すのです。
「お礼を言うのは僕の方ですよ。だってこの二日間、何も食べていなかったんですから!」
このオチのセリフは鮮やかですね。思わず膝を打ってしまいます。
女性の乳房が生々しく出てくるにも関わらず、いやらしくないというか、母性の方を強く感じる書き方が印象的です。特に乳を飲む場面は、男が赤ん坊に帰ったような感覚と同時に、若い男女のほのかなエロスも漂う、なんとも美しいシーン。ところどころに花の香りが差し込まれていて、全編を通して嗅覚にうったえてくるのも上手い演出ですね。
原題の「
短いお話ですが、花の残り香のようにふわりと甘い後味が残る作品です。
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