キューピッドの悪戯「ラテン語問題」②

 さて、次の日も窓辺でこっそり煙草をふかしていると、昨日の洗濯女が現れます。彼女たちに煙草をあげたことをきっかけに、窓越しのごあいさつが毎日の習慣になってしまいました。こうして道端の労働者と寄宿学校ののらくらの間には奇妙な親交が結ばれていきます。


 ──ピックダン先生を見てるのは面白かった。女たちに見つかると震えちゃって、恥ずかしそうなおかしな仕草で愛嬌を振りまくんだ。そしたら女たちは投げキッスの応酬で返す。それを見ているうちに、僕の頭にはひとつのいけない考えが浮かんでしまった──。


 ある日学校へ着くと、僕は真面目な口調でこう先生に告げます。


「さっき道であの若い洗濯女に会ったんですよ。そしたらなんて言ったと思います? 先生のことすごくいいねって。僕ね、思うんですけど……彼女、先生に惚れてますよ」


 もちろんこれは真っ赤な嘘。

 先生は青ざめて、


「そんな馬鹿な。きっとからかってるんだ。私はそんな歳じゃないよ」

「どうして? すごくイケてるのに」


 手応えを感じた僕は、こうして毎日「彼女に会った」と言っては、同じことを繰り返して伝えたのでした。そうすると先生もだんだん真に受けて、窓辺で洗濯女に投げキッスをする仕草もずいぶん大胆になってきたのでした。


 ある朝、学校に行く途中、僕は本当に彼女にばったりと会ってしまいます。そこでさらなる悪戯をしかける僕。


「ねえ、君、僕の先生知ってるだろ」

「ピックダンさんでしょ」

「先生ね……実は、君のことが好きなんだよ!」

「嘘だわ!」

「本当だって。レッスンのあいだも君の話ばっかりなんだから。きっと君と結婚したがってると思うんだ」

「マジか」


 結婚という言葉が出たとたん真顔になった洗濯女。


 僕は教室に入ると、

「先生、手紙を書かなきゃダメです。彼女先生にベタ惚れですよ」


 そこでピックダン先生はありったけの文章力をもって、傑作というべき手紙をしたためます。文書鳩のごとく洗濯女に届ける僕。


 彼女はド真剣にその手紙を読み、感じ入った様子で、

「なんて素敵な文なんだろう。やっぱり教育があるって分かるわ。先生はあたしとほんとに結婚したいのかな」

「あったりまえじゃん!」

「じゃあ、日曜日に夕食に誘ってって伝えて」


 僕がしかけた悪戯とも知らず、話はトントン拍子に進んでいきます。ついに彼女とレストランでの食事にまでこぎつけてしまいました。もちろん、保護者として僕も参加しまーす。

 当日、よそいきの格好で現れた彼女は見違えるほどきれいでした。湖の中州にあるレストランまでは、僕がマイボートを漕ぎます。

 デザートまで肝心の話をいっさいすることがなかった二人。しかしシャンパンの酔いが回った先生が突然切り出します。


「マドモアゼル、私の気持ちは彼の方から伝わっていると思います」

「はい、ピックネ先生」(酔っぱらって名前を間違っている)

「いつか、その、私と……私でよければ、その……可能……ですか?」

「結婚の話だったら。それ以外は無しです」

「もちろんです!」

「じゃあ決まりよ、ピックネ先生!」


 かくして二人のおっちょこちょいは子どもの悪戯のせいで婚約してしまったのでした。でもここにまだ問題が残っています。


「だけど、あたし、お金がないの」

 ピックダン先生は酩酊状態のままブツブツと、

「私は5000フラン(約500万円)貯金してるよ」


 おっ、使い道のない安月給をコツコツ貯めていたんですね。先生偉い!

 それを聞いた彼女は目を輝かせます。


「じゃあ二人で何か始められるわね!」

「何を?」

「なんでもいいわ。5000フランあったら何か商売が始められるわよ」

「そんな簡単に言うんじゃないよ。私はラテン語しか知らないんだ」

「先生、医者になりたくない?」

「学位がない」

「薬剤師は?」

「それもダメ」

「じゃ、食品店がいいわ! 小さなお店を買って食品店をするの! うん、これがいい!」


 でも先生はまだ酔っぱらいながら、


「お店なんて……私にゃ……無理だ……私はラテン語しか……ラテン語しか……知らな……」


 その時彼女がシャンパンのグラスを先生の口に突っ込んだので、先生はついに黙りました。


 帰りはまた僕がボートを漕ぎます。


 ──夜は果てしなく暗かった。とても暗かった。でも僕は見たんだ。彼らが腰に腕を回し合って座り、何度も口づけを交わしていたのを──。


 しかし。

 この外出、学校にバレちゃいました。あちゃー。おかげでピックダン先生はクビ。そして僕もお父さんに大目玉を食らって転校させられます。


 その後バカロレアに合格してパリの大学に進んだ僕がようやく故郷の街に戻ったのは、それから2年後のことでした。

 通りを歩いていた僕は、ある看板に目が釘付けになります。そこに書いてあったのはなんと、


 『輸入食材 ピックダン 食品店』


 ワーオ!

 僕は興奮のあまりラテン語でこう叫びます。


「クアントゥム・ムタトゥス・アブ・イーロ!(すっかり変わったもんだ!)」


 するとピックダン先生、顔を上げ、客をそっちのけに手を伸ばして僕に駆け寄ります。


「ああ! 若い友よ、若い友よ、やっと会えたか! よかった、よかった!」


 するとカウンターから美しい女性が出てきて僕の胸に飛び込みました。別人のように肉づきがよくなったあの彼女でした。

 本当に結婚してお店をやってるなんて!


「お元気ですか?」

「そりゃもう、元気、元気、元気。今年は3000フランも稼いだよ!」

「ラテン語はどうしたんです?」

 

 そしたら先生はこう答えたのです。


「おやおや、ラテン語、ラテン語、ラテン語。いいかい、ラテン語なんかじゃ、メシは食えないよ!」


 おしまい。

 

 僕の悪戯のおかげで結果的に幸せをつかんでしまったラテン語の自習監督。こんなヘンテコなキューピッドのお話も面白いですね。

 ラテン語問題が背景にありますが、あえて政治的な議論には口を挟まず、こういう短編で笑い話にまとめてしまうのがモーパッサンの上手いところだなと思います。珍しくほのぼのとしたハッピーエンドもいいですね。

 ピックダン先生、末永くお幸せに♡

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