自習監督の憂鬱「ラテン語問題 La Question du Latin」①
突然ですが、皆さんは「ラテン語」をどれぐらいご存じでしょうか。動物や植物の学名なんかはラテン語ですね。ぜったい覚えられる気がしない長~い名前。
フランス語、イタリア語、スペイン語などはラテン語が源流となっているわけですが、ラテン語自体はもう日常生活では使われません。
にもかかわらず、やたらと箔がついたイメージがあるのは、学名のように学術関係で幅をきかせているためでしょう。
タイトルの「ラテン語問題」とは、モーパッサンの時代にさかんに議論されていたラテン語教育に関する是非のことです。というのは、当時ラテン語は中学や高校でも過剰なぐらい重点を置かれていた科目でした。勉強することが実践よりも学問中心だったからかもしれません。その反対に、現代フランス語やフランス文学なんかは軽んじられていたそうで。
でもラテン語を習得したところで、社会生活においてはぶっちゃけ役に立ちませんよね。そういう時代錯誤な教育はいかがなものか、というのが議論の争点になっていた──というのが、今回のお話の背景です。
前置きが長くなってしまいました。
要するに化石のような言語をありがたがる教育関係者と現実の社会には大きなみぞがあったということにしときましょう。
さて。
語り手の「僕」は18歳。バカロレアを目の前にした受験生です。僕のお父さんは、県内でもトップクラスのラテン語教育を誇る私塾「ロビノー塾」へと息子を通わせることにします。
このロビノー塾というのは、言ってみれば個人経営の寄宿学校です。バカロレアに合格するための手段はなんでもいいので、公立の中学や高校に通う子どももいれば、こうして寄宿制の私塾で勉強する生徒もいたんですね。
で、このロビノー塾をラテン語で有名にしてしまったのが、自習監督と呼ばれるピックダン先生。
ピック(刺す)ダン(歯)という名前からしてモーパッサンがふざけ始めているのが分かります。
ところで「自習監督」とはなんでしょうか? 名前のとおり、寄宿学校の生徒たちに勉強を教えながら監督する先生のことです。しかし資格を持った教師ではありません。
実はこの職業、学位を取り損ねた、いわゆる落ちこぼれの元大学生が生活のためにしようがなくやる仕事なんですよ。彼らは何らかの理由で学業を放棄したものの、へたに学問を身につけてしまったために他の職業への転身ができません。自分が勉強してきたことしか知らない、社会に出るにはあまりにも融通のきかない人たちです。それでこうして寄宿学校に住み込みで働くんです。
ピックダン先生は20歳のときにこの世界に足を突っ込んでからこのかた、おそらく15年以上は自習監督をしています。グレーの髪で年齢不詳な感じ、でもひと目でどんな人生を送ってきたか分かってしまう負のオーラを発しています。
しかし、ラテン語にかける情熱だけは凄まじく、生徒たちにそれはそれは厳しく叩き込むんです。ラテン語の時間はフランス語禁止。オーケストラの指揮者のように生徒たちのラテン語に耳を澄ませ、間違えれば「ちがーう!」と定規で机をパシーン。まさにラテン語の鬼。
まあ、そのおかげでロビノー塾は「ラテン語で全国トップ!」「ラテン語なら当校へ!」みたいな張り紙が出せるんですけどね。
では「僕」の話へ戻りましょう。
僕は寄宿生ではなく、通いの生徒として、先生の個人レッスンを受けることになります。小さな教室で二人きり。すると、誰かと一対一で話したことなんて15年ぶりの先生は、自分のつらい境遇を怒涛のように僕に打ち明け始めるんです。
「私は砂漠の中の樫のようなものですよ。 « シークット・クエルクス・イン・ソリトゥーディネ »」
同僚には嫌われ、親も友達もいない場所で、知り合いすらできません。それもこれも彼には自由がないから。
「私が一番つらいのはね、自分の部屋すらないってことですよ。私は自分の服以外なにも持ってないんです。ベッドすら。どうですキミ? ひとりになってゆっくり考えごとのできるような部屋もないまま一生を終える男の気持ち、分かりますか? 昼間は動き回るガキどもの勉強をみて、夜は寄宿舎の隅のベッドでいびきをかくガキどもの監督ですよ。ひとりになれる時間なんてないんだよ」
「どうして他のことをしなかったんですか?」
至極もっともな疑問ですが、そこに自習監督である理由があります。
「他のことってキミ、私は家具職人でもなければ帽子屋でもパン職人でもない。私はラテン語しか知らないんだ。しかも学位がない。もし私が博士号を持っていたなら、今5フランもらっている仕事で100フランもらえるところなのに」
うーん、なんかこう、出口のない人生って感じがひしひしと伝わりますね。
そんなあるとき、僕は思い切って先生に煙草を勧めました。ヤバいよとか言いながら窓辺で並んでこっそりと煙草をふかす二人。
窓の向かい側は洗濯屋さんで、洗濯女たちが一生懸命働いています。熱い蒸気のなかで重たいアイロンをかける女たち。
そこへ籠いっぱいに入れた洗濯物をお客さんのところまで返しに行く女が現れました。彼女は20歳ぐらいで、痩せてるけど可愛らしい、ちょっといたずらっ子のような雰囲気の女性。窓から顔を出している僕たちに向かって、いかにも労働者っぽいあざとさで投げキッスをしていきました。
先生は感慨に浸りながら、
「なんて仕事だろうね、女の人には酷だよ! あれこそ肉体労働そのものだ」
不幸な労働者を思い、おセンチに喉をつまらせます。
しかしこの洗濯女との出会いはこれだけでは終わりませんでした。僕がある悪戯を思いついてしまうのです。それは……?
つづきます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます