こんにちは。手元の短編集1に入っているのものから読んでいまして、次はこちらにお邪魔します。
2回短編を読みました。1度目は確かに後味悪いなぁ可哀想だなぁと思いましたが、正直、こういう事って日常の中でもあるように思います。「あの人の日頃の行いから察するに、彼の話は全部信用できない」と思われてしまうこと。確かに誰もが聖人ではないです。でも、日頃から正直さや思いやりもある人って誰か一人は味方してくれたりするんですよね。正直さ=要領の悪さで対立を生んだり自分に不利になる事もあるし、いい事ばかりではない。それでもお金に余裕がなくてもそういう人もいますよね。清貧というか心打たれます。旅先で宿の備品を沢山持ち帰る知人を見たのですが…私も裕福ではないので気持ちは分かるのですが、微妙な気分になり、少し見る目が変わってしまった事があります…。
主人公のように誰の物でもない物を拾って再利用するのは卑しいかもしれないが、悪い事ではないと思います。ですが、日頃の狡猾さにも問題があったのかな、と。その辺りの教訓も感じました。勿論、彼の言葉が真実なのに信用しない人間の怖さや愚かさも上手く描かれているお話ですが。
作者からの返信
葵さん、いつもながら丁寧なコメントをありがとうございます。
一度目よりも二度目、三度目になると別の視点が生まれたり考え方が広がったりして、面白いですね。優れた物語は特にその幅を与えてくれるように思います。
この男は、旅先で宿の備品を沢山持ち帰るタイプでしょうね。で、それを知っている村人からは信用が得られないという。「日頃の行い」というのはちょっとずつ蓄積され、ある時突然評価の指針になってしまう、怖いものだなあと思います。
ただこの村人たちも、どうなんでしょう、少しは備品を持ち帰るんじゃないかな。人は目立つズルをする人がいると、自分の少しのズルを矮小化したり帳消しにして相手を責めるようなところがありますよね。本当に正直に生きてる人がいるのかと思うと疑わしい。男を庇ったところで得するわけでもなく、自分も変な目で見られるかも知れない。そういう空気感というのもどことなく感じられて、その点ではこのノルマンディーの殺伐とした舞台設定が巧いと思います。
現代は日頃の行いだけじゃなく、たった一回のミスでも社会から抹殺されるようなところがあるから、もっと怖いかも知れませんね。
柊さん、こんにちは。
動画はありましたが、これは高校生の実験映画でしょう、できはよくありません。
https://www.youtube.com/watch?v=aSVKnfAAhEU
でも、おもしろいと思ったのは、主人公をオーシュコルヌさんのような老人でなく、現代の高校生にしていることです。
女子のひとりが青い紐を拾い、。。。ストーリーはほぼ小説と同じです。紐は名札をさげる時に使うような紐で、女の子は最後に薬を飲んで自殺しますが、ずうっと「紐」を首にかけたままです。
「紐」って「責め」でしょうかね。
はたから見ると、本人は何も悪いことはしていないのだから、そんな紐は外して、捨ててしまいなさいと言いたいところですが、本人は外したくても、はずされないのでしょうね。
性格もあるかもしれませんが、そういう「責め」は誰かが取り外してくれないと、消えないのかもしれません。
「今はネットで何もかも広まる世の中。オーシュコルヌさんのように一人でこの多数に対峙するとしたら……」
本当にそうですよね。
誤解をされて世間から敵にされてしまった場合、本人がいくら真実を語っても、人々が怒り狂って信じてくれない。何か口をひらくたびに、さらに炎上するとしたら、どうしましょうか。
そんな時、自分で首から「紐」を外せる強い精神でいたいものです。
「作品の根底に流れているものは意外と普遍的なものではないかなと思えるのですが、いかがでしょう」
はい、そう思います。
作者からの返信
九月さん、コメントありがとうございます。
高校生に置き換えると現代的で生々しくなりますね。
本人は外したくても外せなくて、誰かが外してくれないと消えないというところにすごく納得しました。
今は都合のいい部分だけ切り取られて勝手に解釈されて炎上するという世の中なので、この短編の世界よりずっと広くて、顔も知らない人にまで非難されるという恐ろしい時代だと思います。紐を外してくれた人にすら火の粉がふりかかることもありえますね。
この主人公は決して立派な人物ではないですが、そんなに完璧で隙がない人なんているでしょうか。ちょっとした粗相もないように油断なく生きることにどれだけ面白みがあるのか。そう思う自分も、迂闊に紐を拾わないようびくびくしながら生きている気がします。
これは教訓ですね。
どうやらオーシュコルヌはもともと嫌われていたらしい。そして自分がなんで嫌われてるかもわからない。ここですでに軽蔑される対象に自分を貶めている。その上で、ですが。
集団の中ではきちんと自分の立ち位置を把握しておかないといけませんよ。自分の立ち位置がわかったら、自分より強い人に逆らっちゃいけませんよ。どうやって勝つかも知らない者が強い相手に挑んではいけないのです。
だから、君たち、賢くなりなさい。そうなれない者は権力である我々にはたてついてはいけないのです。大人しく、政府の言うとおりにしなさい。それが正しい市民の在り方です。
……というのを教えるために、教科書に載せてるんじゃないんですか?(ただの皮肉です)
(こんなこと書いちゃって今回こそマジで嫌われる、と覚悟を決める月森)
作者からの返信
月森さん、コメントありがとうございます。
自分の立ち位置を分かっていなきゃいけない、ってのはなるほどですね。そして自分より強い者に逆らっちゃいけないっていうのも。その論理で行けば権力のあるもの、政府の言うとおりに、ってところまで通じて行くかもですね。
この話に関しては、僕は権力者より世間に逆らうなってことかと思いました。なんかこう、SNSとかで悪者にされて、何を言っても叩かれる人みたいな。清廉潔白な人なんていないはずなのに、ボロを出した人に対してはわりと自分を棚に上げてボコボコにしますよね。この村人たちはそういう、匿名の多数の人たちにも見えます。
ただ、この話を教科書に載せる理由があんまり分からないです。変な話、空気を読んで妙な主張をするなというのが教訓ならやばい教科書になりますね。……あれ、もしかしてそれが狙い?(笑)
まあ、ひとつだけ言えることは、教科書を作る人には先生の作品を権力者のプロパガンダにはしないで欲しいってとこですかね(笑)
思い込みって怖いですよね。なにもやってもなにを言っても、色眼鏡のまま見られてしまう。オーシュコルヌおじいさんは死ぬまで誤解されたままで気の毒ですけれど、でも真実が歪められて悪くとられている人って、世の中に多いように思います。
たちが悪いって思うのが、思い込みで人を見ている人がそれに気づいていない。思い込みを本当だと信じきっているのって怖いと思います。
この物語が教科書に載っているのは、教訓的な感じなのでしょうか?討論するにはいい題材ですよね。
作者からの返信
遊井さん、ご感想ありがとうございます!
いったん黒と決められたら本人がなんと言おうが黒になってしまう、多勢に無勢ですね。狡いところのない人間なんているだろうかと思うけれど、叩くときに限ってはそれは棚に上げて正論をかますという(笑)憶測でしかないものが真実になってしまう世間とは怖いですね。結局思い込みを覆すことが一番難しいのではないでしょうか。
今教科書に載っているかは分かりませんが、こういう話を中学生あたりが読んだらどう思うのかな。ちょっと興味がありますね。
編集済
まさに、私がこの世で一番恐ろしいと思うのがこれですね。『群集心理』というのか、いや『体の良い生け贄を吊し上げ鬱憤を晴らしたくて、いつもうずうずしてる民衆』というのか。
合理的検証、理論的な帰結などどうでもよく、鬱憤を晴らせればと飛び付いてしまう。歴史的に幾度となく繰り返されてきた愚行であり、しかも犯人は特別な極悪人ではなく『我々民衆』なんですね。
かつて日本が戦略的にあり得ない戦争に突入していく原動力となったのもこれだと思ってます。閉塞感から鬱憤が溜まり、他国を反対者を糾弾しながら盛り上がってしまう。
なにより、吊し上げが正義の行いだと思っているのが恐ろしくて堪らない。
コロナ禍の今、各地で起こっている現象なのかもしれません・・
人間なんかみんな間違ってて変態で、だから謝りながら許し合いながら生きていくべきなんじゃないの?と思ったりしてます。誰だって紐くらい、拾っているもんですから。
作者からの返信
呪文堂さん、コメントありがとうございます!そうですね、この構造ってまさに現代に通じるものですよね。集団心理とは、いつからかそれが真実になって正義にまで発展する、怖いものだと思います。
仰るとおり、ひとなんてみんなどこかで紐を拾っているもので。後ろ暗いところのない清廉潔白な人間なんていないはずなんですけどね。こういう心理においてはそこが置き去りになってしまうようです。あることないことがネットであっという間に広まる現代の社会は、この物語の社会よりもっと陰険で危ういと思います。
紐、紐なんてどうするんだろうと思うけど、今より物が貴重な当時は何でも取っておいて役立てていたのかも知れない。ケチ根性と言うけれど国が違えば人も違いますね。僕の友人が今ニューカレドニアに住んでるんですが(そこもフランス語圏です)、落とし物をしたら絶対帰って来ないそうです。ニューカレドニアに住んでいる人たちは拾い物は神様の贈り物と言うそうで、拾ったものはその人に所有権が移るとか。落とした人は最後、神様に送ってしまったと思ってあきらめるしかないそうです。落とす神あれば拾う神あり、また物は巡っていくという事らしいので、文化の違いってすごいですね。このおじさん、生れた場所と時代が悪かったですねw
作者からの返信
りくさん、コメントありがとうございます!そうですね、紐といえど何に役立つか分からない、ケチというより貧しい農民の節約術みたいにも見えますが。でもやっぱりせこい感じがするんでしょうかね。
しかし神様の贈り物ってw その発想すごいですね、ニューカレドニアでは絶対落し物はできないということですね(^^;) 大金だったら本気で神様を恨みそうです。でももし倍になって巡ってくるならいいのかな…巡ってくれば、の話ですが(笑)
否定しようと必死になって弁明したせいで、かえって怪しまれたのでしょうか。爺さんが鼻で笑ってどーんと構えていればこの結末にはならなかったようにも思えました。似たようなことは現代人にもあるし、柊さんの仰る通り、ほんと普遍的ですね。紐を拾ったのを見られて気まずくなり、他のものを捜しているふりをするのも凄くリアルです。
作者からの返信
橋本さん、コメントありがとうございます!
自分が当事者だとすると、無実の泥棒疑惑はやっぱり必死で弁明したくなるかな…。でもそのせいで逆に村人との溝が深くなるのが皮肉で。どーんと構えれば構えたで「開き直った」とか言われそうですよね。じいさんがもっと神経の太い人なら違ったかもしれませんが…。
嫌いな人に恥ずかしいところを見られたときのリアクションはリアルですね。これも裏目に出てしまうのですが、それも含めてうまいですね。
うわぁ~~最初の前置きがききますね。落ち込む用意を万全にとは・・・💦
本当にモーパッサン先生は冷徹ですね。紐を拾った老人をこうも苛め抜くストーリーを考えられるというのは。何気なく紐を拾った行為と、普段からの老人のキャラクターも相まってでしょうが、財布が見つかった後も泥棒扱いして話を聞こうとしない人々を描けることも。
モーパッサン作品に限らず、コロナ以降、他人に対する思いやりにかける風潮は感じることがありました。コロナ初期の頃、罹患することが非常な罪であるかのように責めたり非難する風潮が強かったと思います。自粛警察や差別など。そういうことをする人が、罹ればいいのに・・・と思いました。立場の弱い個人を多くが断罪するような風潮も確かにあるように思います。怖いですね。
作者からの返信
神原さん、コメントありがとうございます!ちょっと重たかったですね。
普段からケチで狡猾なところがある、という人物設定があるから「あの人はああだからこんなことをしても当然だ」という人々の思い込みに繋がるわけですよね。客観的に見れば無実なのにそれでもまだ泥棒扱いされるのも、そういう思い込みによるものですね。こじつけのような憶測がまことしやかに語られるのもありそうだなあと思います。
そういえば自粛警察って、まさに見張ってる感が満載の言葉ですね。この話の人々もだけど、事情をすっ飛ばして結論にいたる、しかもそれが正義である、ということですよね。この風潮は世の中の常なんでしょうか…。
ラストの紐。
胸が痛い。たしかに、これは後味が悪いですよね。
あらすじだけで、うわってなりました。柊さまの書き方も上手いのでしょうが。
作者からの返信
雨さん、コメントありがとうございます!
噂は人をここまで追い詰めることができるんですね。死に際でさえ無実を訴えるこのラストは重たいです。
あらすじはいつも悩んでしまうのでお言葉に励まされます。ありがとうございますm(__)m
おお、ラストは落ち込みますね。
まず「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」ということわざを思い出しました。
疑われるような行動を本人は全くとっていなくても、世間は怖いですね。
自己弁護しすぎるとかえってウザがられてしまう風潮ってありますね。
人間って怖いです。ネットでの中傷や嘘を否定しても聞かれない時のようです。
無念だったでしょうね。
作者からの返信
ハナスさん、コメントありがとうございます!
死の床でまで必死で弁明を…ラストはがっつり落としてきますね。
ことわざを知らなかったのでなるほどと思いました。それでもこうなってしまうという……。ケチで狡猾なじいさんという評判だけで犯人になるには充分だったんでしょう。世間の目の持つ力を思い知らされます。
いったんこうと決めつけられると、本人が言えば言うほど墓穴を掘っていく。多数に無勢の怖さですね。
ずーーーん。落ち込みました。
柊さんの言うことをきいて、準備しておいて良かったです。
でも不思議なことに、私、このお話を知っていました。あれれ? なんでだろう? どこで読んだのか全然思い出せないのですが、オチも知っています。
モーパッサン先生の作品に触れるのは柊さんのところが初めてなのにな??
としばらく考えて、思い出しました。興味が湧いて青空文庫でいくつか作品を読んでいたのです。その一つがこれでした!
一応調べてみたら、そちらは「糸くず」というタイトルで、よく見たら翻訳しているのは国木田独歩でした。教科書に出てくる人だよ……!
すっきりしましたが、思い出したところで立ち直れるわけではありません。ずーーーーん。
作者からの返信
鐘古さん、コメントありがとうございます。
青空文庫、僕もどんな翻訳がされているのか覗いたことがあります。この話も載っていたので読んでみました。なんか日本語自体がけっこう古くて読みにくかった印象があります。モーパッサンの文章の方が現代的に感じたぐらいです。国木田独歩、僕は恥ずかしながら名前をどこかで見たことがある程度で、そんなにすごい人と知りませんでした。
新訳もあるでしょうが、訳が古くても新しくても、この話に救いがないのは変わりませんね。。