一本の紐を拾ったばかりに「紐 La Ficelle」
後味が悪い、という言葉がキャッチコピーのようにくっついて回る先生の作品ですが、それでもどこかに情というか、優しさみたいなのがほんのり香ってくるじゃないですか。もしそこに救いがなくても、慈愛の視線があったり。
今回はそういったほんのりとした優しさが一切ない、殺伐とした話です。でもこれは教科書にも載るほどの作品ですので取り上げないわけにはいかないですね。どうか落ち込む用意を万全にしておつきあいください。
舞台はノルマンディーの片田舎。今日は市場が立つ日で、町は大賑わいです。市場といっても小ぎれいなマルシェではありません。周りの村に住むお百姓さんたちが、牛だの鶏だの鴨だのといった家畜を売りに来るのです。
広場には怒鳴り声や甲高い声が響き、そこに牛のモーモー鳴く声が混じります。それに加えて家畜小屋や肥やしの匂い、藁や汗の匂いが入り交じったカオスな状態。ノルマンディーの農民の生活がリアルに漂ってくるようです。
オーシュコルヌじいさんも数キロ離れた村からやってきた一人でした。彼は広場に向かう途中、道に一本の紐が落ちているのに気づきます。見つけたものは取っといて損はないという、しみったれたノルマンディー精神の持ち主であるオーシュコルヌさんは、リューマチに痛む体を曲げて紐を拾うと丁寧に丸めました。
しかしそれを犬猿の仲である馬具屋のマランダンという男に見られてしまいます。気まずくなったオーシュコルヌさんは、すぐさま紐を隠し、地面で何かを探しているふりをしてごまかしました。
さて、昼になり、町の食堂は市場に来た人々であふれかえっています。オーシュコルヌさんも昼飯の真っ最中。そこへ通りからこんなお触れが聞こえてきました。
「本日、9時から10時の間にマネヴィル村のウルブレックさんが500フランの現金の入った財布を失くしました。見つけた方は町長へ申し出て下さい」
500フランは1フラン1000円で計算するとかなりの高額ですね。食堂にいた客たちも財布が見つかるのかと噂を始めます。そこへ。
「ブレオテ村のオーシュコルヌさんはいますか」
憲兵が現れて声をかけます。
「オラですが」
「ちょっと町長のところまでご同行願います」
なぜか町役場まで連れていかれたオーシュコルヌ。町長は彼を見るとこう言います。
「あなた、今朝ウルブレックさんの財布を拾いましたね」
は?
寝耳に水の話に彼は驚きうろたえ、
「オラそんなものは拾ってねェです」
「とぼけないでください、見た人がいるんですよ」
「誰が?」
「馬具屋のマランダンさんです」
その名前にピンときたオーシュコルヌは怒りで真っ赤になりながら反論します。
「あいつはオラが紐を拾ったところを見ただけだ。ほら、これ見て下せえ」
オーシュコルヌは道で拾った紐をポケットから取り出して町長に見せました。
しかしこれは逆効果。町長は首を振りながら、
「財布と紐を見間違える? あの人望あるマランダンさんが? 馬鹿言っちゃいけない。あなたは財布を拾った後、もっと金が落ちてないかキョロキョロ探してたそうじゃないですか」
何を言っても信じてもらえないオーシュコルヌ。結局マランダンを呼んでさんざん罵りあい、身体検査までされた挙句ようやく解放されました。
町役場を出ると噂を聞きつけた人々に取り囲まれます。彼は例の紐を見せながら一生懸命に無実を訴えますが、
「この老いぼれ、失せろ!」
分かってもらえるどころか罵声を浴びてしまいました。
村に帰ってからも彼はこの理不尽な話を人々に語るのですが、やはり誰にも信じてもらえません。悶々と一夜を明かしたオーシュコルヌは、翌日、財布が戻ったとのニュースを聞きます。別の村の青年が道で見つけたという話です。そら見ろ、疑惑は晴れたとばかりに、さっそく彼はこの話を吹聴して回ります。
「何がいちばん堪えるって、嘘をつかれることだよ。人がついた嘘のせいで非難されるほど辛いもんはねェ」
彼は出会う人を捕まえてはこうして一部始終を語るのですが、なぜかみんな「はいはい」みたいな反応。どうも信じてもらえていない。まるで自分のいないところでコソコソ噂されているような。
次の火曜日、彼はまた市場へ向かいました。もちろん自分の冤罪話を人々に聞かせるためにです。
馬具屋にはまたマランダンがいて、オーシュコルヌを見て笑い出しました。訝しく思っていると今度は別の男に小突かれ、「このずる賢い老いぼれが!」と罵られる始末。彼にはまったく意味が分かりません。
食堂に入ったオーシュコルヌは、主人にまた同じ話を始めましたが、ここでも、
「おめえさんの紐の話はもううんざりだ!」
怒鳴られてしまいます。
「なんだよ、財布は見つかったじゃねェか」
「黙れジジイ、拾う奴がいれば返す奴がいるってこった。てめえは知らぬ存ぜぬでひとを煙に巻こうって魂胆だろ!」
彼にはやっと分かりました。人々は自分と財布を返した男がグルだと思い込んでいるのです。言い訳しようにも食堂中の人間に笑いものにされ、彼は打ちのめされて村へ帰ってきました。
信じてもらえないことがこんなに苦しいとは。
もともと拾ったものでも取っておこうという精神の人ですから、やろうと思えば同じことはできるわけで、そういう彼の狡猾さを知っている村人に己れの無実を納得させるのは、恐ろしく難しいことに思えるのです。
彼は必死になってさらに弁明を重ねました。どんどん話を長くして、詳細を増やし、新しい弁明をつけ加えて。でも彼が話せば話すほど人々は冷笑します。
「どうせ嘘つきの言い訳だ」
オーシュコルヌは日ごとに疲弊し、病んでいきました。そして年の瀬になってついに彼は起き上がれなくなります。
死の床で彼がうわごとのように繰り返したのはこの言葉でした。
「ほら、これ見て下せえ、紐です……これがその紐です……見て下せえ、町長さん」
了。
田舎の話といっても牧歌的な感じではなく、全体的に陰険です。ノルマンディーの農民の厳しい暮らしがそのまま精神も殺伐とさせるような。閉鎖的で、人の噂がたちまち真実となるような空気。そこで多数を敵に回すことの恐ろしさ。言えば言うほど墓穴を掘る社会。
なんとも理不尽で後味の悪いお話です。現代ならこんなことにはならないと言いたいところですが、果たして。
今は近所の村だけでなくネットで何もかも広まる世の中。オーシュコルヌさんのように一人でこの多数に対峙するとしたら……。
作品の根底に流れているものは意外と普遍的なものではないかなと思えるのですが、いかがでしょう。
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