一夜の出会いは運命の恋に「難破船」②

 大変なことになりました。油断している間に恐ろしい速さでやってきた満潮。彼らは急いで甲板へと出ますが、歩いて岸へ向かうことはもう不可能です。


「あたしたちが難破してしまったわね」


 長女が冗談めかして言ったけれども、笑えない。恐怖の方が勝ってしまって、自分たちに起こるであろうすべての危険がいっぺんに胸に押し寄せて、大声で「助けて!」と叫びたい。でも誰に?


 満ち潮と同じぐらいの速さで夜の闇が訪れます。できることはたったひとつ。この船の上で一夜を明かすことです。すでに船体は水の中。かろうじて海から頭を出している船尾へ逃れ、皆でじっとしているほかありません。

 暗闇と寒さと恐怖の中、ぴたりと寄り添った長女の肩越しに、彼女が震え、その歯が音を立てガチガチと鳴っているのが伝わります。誰も口を利かず、押し黙ったまま、嵐を凌ぐ草むらの虫のようにひたすら耐えるだけ。

 しかしそのとき彼は不思議な感覚をおぼえます。ショールを巻いた体から伝わる彼女の体温に、口づけのような幸福を感じるのです。こんな恐ろしい状況なのに、彼女のそばにいるだけで、何時間もこうしていなければならないことが幸せに思えるのです。


 ──なぜ? 愛してもいない、知りもしないこのイギリス人の娘に、なぜこんな安らぎを感じるのか。彼女のためなら何でもできるとさえ思えるのか。おかしなことだ。たった一人の女性にこんなにも心を揺さぶられるとは。その若さと美しさがワインのように心を酔わせるというのか──。


 しかし事態は深刻になってきます。夜が深まるにつれ、風がどんどん強くなってくるのです。いつ壊れてもおかしくない難破船では、ほんの小さな波でも船体を揺らすようなことがあればひとたまりもありません。突風が吹きつけるたびに緊張が増し、波がマリー・ジョゼフの骨を打つたび心臓まで縮みあがる、一触即発の状態です。


 父親はさっきからマッチをつけては時計を見ていましたが、ふいに主人公に向かって、厳粛な口調でこう言いました。


「新年、あけましておめでとうございます、ムッシュ」


 すでに時は真夜中でした。って、え? こんな時にカウントダウンしてたんですか?!

 いや、そうじゃなくて。なんでしょうこの英国紳士の落ち着き、律義さ。この状況でも相手に新年を祝えるかっこよさ。

 二人が手を伸ばして握手すると、家族は皆でイギリス国歌を歌い始めます。闇の中へ溶けていく遭難者の歌声。それは悲しく、美しく、どんな祈りの歌よりも心を打つものでした。

 国歌のあと、彼は長女にもうひとつ何か歌ってくれとお願いします。彼女は透明な声でゆっくりと寂しげなバラードを歌い始めました。海はさらに高く、波は勢いを増して難破船を叩きつけます。しかし彼にはもう歌声しか聴こえません。夢のような恍惚の中で彼はこう思うのです。


 ──そうだ、この人は人魚姫なのだ。彼女はこの船で自分を魅了し、このあと一緒に海の藻屑となるべく私を誘ったのだ……。


 ついに限界の時がやってきます。突如船が傾き、はずみで甲板を転がる乗客たち。死を覚悟した主人公は自分の上に投げ出された彼女を抱きしめ、その頬に、額に、髪に、ありったけのキスをします。

 そのとき娘を見失なった父の呼ぶ声がしました。返事をしながら彼の腕をすり抜けようとする娘。


 ──私はこの瞬間、船が真っ二つに裂けてふたりで海のなかへ落ちていけたらと思った──。


 あわや危機一髪のところで救助船が現れ、彼らは一命をとりとめます。ですが、助かったにも関わらず、彼の心はマリー・ジョゼフ号に残ったまま。まるで幸福の瞬間を奪われたかのように悲しみを覚えるのです。


 翌日にはそれぞれの帰途についた彼ら。新年に手紙のやり取りをするようになってもう20年がたちます。彼女はあれから結婚してアメリカに住んでいます。身内のことは書いてくるのに夫の話は決してしない彼女。そして自分はといえば、手紙に書くのはあの難破船のことばかり。

 

 ──あの人こそ自分が愛せる唯一の女性だったのに。時だけが過ぎてゆく。あの金髪がもう白髪だとは、なんと残酷な……! あの時の娘……あの麗しい娘よ……!


 何もできなかった自分への後悔と、時の流れに対する苦悩のモノローグで物語は終わります。


 成就することのなかった吊り橋効果の恋。

 彼女が手紙の中で夫のことを書かないのは、男に対する気遣いか、それとも彼女自身の秘めた感情からくるものなのか、分かりません。ただ、彼女は少なくとも現実の時間の流れの中に生きています。

 反対にいつまでも「あの夜」の中にいる主人公。極限の状態で一気に膨らんだ恋は、そこで時が止まったまま冷凍保存されてしまったかのようです。高揚したまま止まっている記憶だからこそ、主人公はの彼女の姿に未練を抱き、残酷な時の流れを嘆くのはないでしょうか。


 同じ恐怖を共有しても翌日には他人になる現実。現実に戻った彼らは、英国人家族とフランス人という他人へと戻っていく。そこにも切なさを感じます。


 大晦日に手紙が来るたび、あのときの彼女を思い出す主人公。失ったものを越えられない男の悲しさが強く印象に残ります。

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