ある大晦日の出来事「難破船 L'Épave」①
「吊り橋効果」という言葉がありますね。同じ危険を経験した者同士が恋に落ちやすいという心理効果のことです。これは命に関わる危険でなくても、怖い映画を一緒に観るとかでも気持ちを共有することで起こるそうで。なので狙っている相手がいるなら一緒にホラー映画などいかがでしょうか。
とまあそれはおいといて、このお話も吊り橋効果を彷彿とさせる内容です。どんなお話かというと……。
主人公は海上保険会社に勤務する30歳の男。彼は大西洋沿岸で難破した船「マリー・ジョゼフ号」の調査のために、大晦日だというのにラ・ロシェルという街に行くよう命令されてしまいます。
ラ・ロシェルとはどこでしょう。地図で見るとフランスの左側、ブルターニュ半島より下の少し湾曲した部分にある港町です。で、このラ・ロシェルの目と鼻の先には「レ島」という島があります。マリー・ジョゼフ号は三本マストの大型帆船でしたが、大西洋を南下中に激しい嵐に遭い、このレ島の沿岸まで吹き飛ばされてしまったのです。
今でこそラ・ロシェルから島へ渡る橋が架かっていますが、当時は船で行くしかありません。
朝の海は灰色の空に包まれ、重たい霧があたりを覆っています。凍りつくような冷たい空気。浅瀬が延々と続く砂の混ざった海水は黄色く淀み、波のない海がまるで死んだようにべったりと広がっています。冬の大西洋沿岸の寒さと不気味さが伝わってくる描写です。
レ島に向かう船の中で、船長は主人公にこう言います。
「今は満ち潮だが午後には引き潮になります。島から歩いて難破船まで行けますよ。でも船にいるのは2時間ぐらいが限度です。あっという間に潮が満ちてきますからね。遅くとも7時半にはこの船に戻ってください。そしたら今夜にはラ・ロシェルまで帰れますんで」
そう、引き潮と満ち潮で浜辺が現れたりなくなったりするんですね。宮島とかモン・サン=ミシェルのようです。
レ島に着いた主人公は、引き潮になるのを見計らって、浜辺から歩いてこの難破船へたどり着きます。
間近で見るマリー・ジョゼフ号はまるで打ち上げられた鯨のような不気味な様相をしていました。
──その船は横向きに倒れていた。壊れ打ち砕かれ、まるで動物のあばら骨のように折れた木組みの柱をむき出しにしている。あらゆるすき間から入り込んだ粘着質な砂は、この体を捉えて離さないかのようだった。そして船の方も砂の中へ根を張ってしまったように見えた。船首は地中深くまで食い込み、反対に後ろは空へ向かって突き上がっている。そこにはまるで天に絶望の叫びをあげているような「マリー・ジョゼフ」の二文字が残っていた──。
彼はどうにかこうにか中へ入り込み、調査を開始します。真っ暗な長い地下室を思わせるひび割れた船体。その隙間から差し込む光。耳を澄ませばカニやフナクイムシ、その他この死体に棲みついたありとあらゆる生物の立てる音が聞こえてきます。浸食された船。静寂と孤独──。
と、そのときです。
突然、近くで人の声がしました。
きゃー、出たあー! 驚いて飛び上がる主人公。
が、幽霊ではありません。おそるおそる甲板へ上ってみると、そこには一人の大柄な英国人の紳士と三人の娘がいたのです。こちらもビックリならあちらもビックリ。なんでこんなところに?
一瞬の妙な沈黙の後、紳士が口を開きました。
「あのゥ、あなたハ、この船の所有者でいらっしゃいマスカ?」
「はい、うちの船ですが」
「中を見学してもよろしいデスカ」
「はあ、どうぞ」
と、この好奇心旺盛な英国人家族を船の中へ案内することになってしまいました。
彼らは骸骨のような船体の中へ入ると感嘆の声を上げ、おのおの用意してきた画用紙を出してスケッチを始めます。今ならスマホを向けるとこですが、それより趣がありますね。
さて、主人公は三人の娘のうち、18歳ぐらいの長女の可憐さにときめいていました。まるでとれたての柔らかい海の幸のよう。薄紅色の貝や艶やかな真珠を思わせる。海の底深くに隠された神秘を感じさせる……。
また食べ物を引き合いに出してますね、ごめんなさい。これは美しさを形容する先生なりの誉め言葉なのです。海だけにそこはどうしても海の幸なのです。
彼らがスケッチをする間、主人公はちゃっかりこの長女の隣に座って楽しくお喋りをしています。その独特の話し方、笑い方、こちらにものを尋ねるときの海のような瞳の色。可愛いなあ。彼は時間がたつのを忘れて彼女に見入っていました。
するとふと彼女が言いました。
「なんだか船が動いたような音がするわ」
なぬっ?!
あわてて船体のひび割れから外を覗くと、なんと目の前には水が迫っています。満潮です。時間を忘れて楽しくお喋りしている間に、海の水はすでにこの船を取り囲んでいたのです。
さあどうする……?
つづきます。
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