彼女は僕たちのアイドルだった「蠅 Mouche」

 自他ともに認めるボート好きだったモーパッサン。その情熱はかなりのもので、自作のタイトルを付けた「ベラミ号」なんて船も持っていたそうですね。特にパリ郊外でのセーヌ河下りは彼の十八番、色んな作品にこのシーンが登場します。太陽の光を浴びながら緑に囲まれて漕ぐボートはきっと作家を虜にする魅力があったのでしょう。

 この短編はそんなモーパッサンの若かりし頃の思い出を彷彿とさせるお話です。


 「僕」はまだ二十代で、安月給の若者です(すでに本人の話)。彼は週末に泊りがけでパリ郊外のセーヌ河に来て、ボート仲間と一緒に船を漕ぐのが唯一の楽しみ。仲間と無い金を出し合って買ったボートに乗り込み、チームのように一緒に漕ぐわけです。ああなんて爽やか。青春。二の腕&胸板自慢。いいですね。


 この五人グループにはそれぞれあだ名があって、小柄で顔色の悪い「青ちゃん」とか、いかつい見た目の「トマホーク(斧)」とか、サボり屋の「山高帽」とか、片眼鏡をつけてる「一つ目君」とか、変な呼び名がついています。ちなみに僕のあだ名は「ジョゼフ・プリュニエ」。

 あれ、ひとりだけまともな名前じゃない? 実はこれ、モーパッサンが使っていたペンネームだそうですよ。


 さて、仲間と一生懸命ボートを漕いだり宿泊所でワイワイやるのはもちろん楽しいんだけど、このメンツだけじゃ何か物足りない。

 ハイ、お察しですね、女の子です。

 当たり前ですよね、血気盛んな男子が五人もいるんですよ。暑苦しいですよ。ここはやっぱり女子が一人ボートに乗ってくれてるだけで目の保養? 清涼感があるし、何よりモチベーションが上がるじゃないですか、それはもう桁違いに。

 

 というわけで週末にバーなんかでナンパするんだけどなかなかうまく行かない。この五人、好みがうるさいようです。贅沢なんだよね、特にジョゼフ・プリュニエ。


 でもある日、一つ目君が女の子を連れてきます。

 どんな女子かって? 引用しましょう。


「それは細身で元気な冗談好きの女の子だった。けっして美人ではない。よく画家が気紛れにちょちょっと似顔絵でも描きそうな感じ。

 彼女の口から出る言葉は奇想天外で、完全に頭が飛び立ってる人だった。アブサン(当時流行った強い酒)を抱いて生まれてきたんじゃないか、いやきっとお産の時に母親が一杯ひっかけたんじゃないかってぐらい、酔っぱらったまま生きてきたような娘だ。

 その夜は彼女の独壇場だった。男五人を向こうに回し、笑わせ、驚かせ、彼女はあっという間に僕たちの心を掴んでしまった。」


 少し、いや相当変わってるけど魅力的な女性像が浮かんできますね。


 みんなにあだ名がついているように、彼女にもあだ名ができます。それが「蠅」。なんで? 理由は誰にも分かりません。でもそれが彼女に似合っていたんです。

 これ、日本語で蠅というとなんだかなあですが、フランス語では「ムゥッシュ」(おじさんの意味ではありません)といいます。これならちょっと可愛らしい響きですよね(?)

 彼女は面白いだけでなく、女性としての魅力もありますから、五人の男たちは次第に「蠅」に惹かれていきます。

「あたかも小さな虫の羽から零れ落ちる妖しい粉が振りかかり、魔法にかかるように、僕たちは彼女に魅了されていった。」

 当然の展開。


 その中でも彼女をナンパした一つ目君がやたらと独占欲を発揮します。何を勘違いしてるんだか自分の恋人扱いにして人前で見せつけるようなことをするので、出し抜かれたメンバーは面白くありません。なんであいつの彼女ってことになってるの? とイラっとします。

 でもここからが19世紀のフランスといいますか。

 「蠅」はこっそりと他のメンバーたちともそういう関係になるんです。週末の宿泊所では一つ目君が彼氏、でも平日のパリではほかの男たちとランデヴー。


 これ今だったら公衆〇所とか言われそうですよね。世の親御さんたちが眉をしかめそう。

 でもモーパッサンが描く彼女はそうではなく、自由に皆に愛を与える高級娼婦です。蔑まれる対象ではないどころか、アイドルであり続けるんです。実にオープンな恋愛感覚。


 気の毒なのは彼氏気取りだった一つ目君です。彼は嫉妬のあまり、彼女のあだ名をもって「どんな死骸にでもとまりやがる蠅だっ!」なんて怒るんですけど、とりあえず自分が一番というポジションを確保することで気が収まったようです。

 というわけでこの五人対一人という奇妙な六角関係はしばらく順調に続きます。


 が。

 自然の成り行きというか、起こりうることというか。

 彼女、妊娠します。ガーン。

 みんなの頭に浮かんだのはたったひとつ。……誰の子ども?

 分かりません。分かりようがない。


 ここで「おれ知らない」と放り出すような奴は男の風上にも置けません。彼らは一瞬の戸惑いのあと、不思議な団結力を感じ始めるのです。

 一つ目君が言います。

「諸君。彼女の身に降りかかったことは我々全員の罪である。ここは一致団結して我々の子どもということにしようじゃないか」

「そうだ、我々の子どもにしよう!」

 妊娠の重みを一人で背負っていた蠅ちゃんはその言葉に感涙します。

「あなた方、なんて心のある人たち……ありがとう、ありがとう……!」


 かくて彼らは今まで以上に強い絆で結ばれます。まだ生まれてもいない子どもを思って、将来は何になるかなあ、なんて夢を膨らませる「五人のパパ」。人一倍の想像力で子どもの未来を語る蠅ちゃん。なんとも微笑ましくかわいい六人です。


 ところが、運命は残酷でした。

 ほんのちょっとした不注意から彼女は河へ落ち、あわや自分の命まで失いかけるのです。

 赤ちゃんは望むべくもありませんでした。

 ベッドで涙にくれる彼女を取り囲む五人の男たち。あれだけ楽しみにしていた子どもを失くし、やるせない悲しみに何も言葉が出てきません。

 ではラストシーンを。


 ──彼女がそっと尋ねた。

「みんな……赤ちゃん、見た?」

「見たよ」

「男の子だった?」

「ああ」

「可愛かった?」

 僕たちが返答に詰まる中、誰よりも優しい青ちゃんが答えた。

「すごく可愛かったよ……」

 その瞬間、彼女は大声で泣き崩れた。そんな姿を見て、きっと彼女を一番愛していた一つ目君がなんとか力づけようとこう言ったんだ。


「どうか悲しまないで。それ以上悲しまないでおくれ。子どもならまた作ってあげるから」


 すると彼女の瞳にほんの少しだけかつての光が宿った。涙に濡れながら、まだ胸を痛めながらも、彼女は僕たち五人を見つめて尋ねた。

「……本当に?」

 僕たちは声を揃えて答えた。

「もちろんだよ!」


 了。


 このオチは……。悲しみに突き落としておいてからのこのオチは素晴らしいです。優しさと笑いをもたらすと思うのですが、いかがでしょう。

 

 その後五人の若者と彼らのアイドルはどうなったのでしょうね。

 今はもう大人になってしまった男たちの甘酸っぱい思い出。懐かしさとユーモアを持って作家が振り返る青春のひと幕でした。

 

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