狂気が導いた結末「オルラ」③
8月19日。
──分かったぞ! ついに「奴」の正体を突き止めたぞ!
男の日記はいつにも増して興奮気味にこう綴られます。
──私は興味深い記事を読んだ。それはブラジルのある村で起こった集団的精神錯乱について書かれたものだ。人々は何者かに追われ、憑りつかれるような感覚に陥り、家や村を捨てて逃げ出したという。人々の眠りを妨げ、命を吸い取ろうとしたその何者かは、牛乳と水だけを消費していた……。これだ、これこそまさに私の家に棲みついている者と同じじゃないか!
そうだ、思い起こせば5月8日、あの気持ちよく晴れた日、私はセーヌを往く真っ白なブラジル船に手を振った。あの時「奴」は船にいたのだ。そして私の姿を捉え、この家に乗り移ったのだ!
なんという不運!
奴の名前……奴の名前は何という……。聞こえるぞ……奴が耳もとで叫んでいる……。
ル……オルラ……。オルラ……そう、オルラだ。
オルラに憑りつかれたのだ……!
ここでようやくタイトルである「オルラ」という言葉が登場します。男はこのオルラを捕らえて復讐しようと企むのですが、逆に決定的なものを見せつけられてしまいます。
その夜、彼は寝室で書き物をするふりをしてオルラの出現を待っていました。しばらくすると耳もとに何かが触れる気配。
一気に振り返り飛びかかったものの、見えないものには触れることができません。よろけながらふと鏡張りのクローゼットが目に入った瞬間、男は凍りつきます。
鏡の中に自分の姿が映っていないのです。
いるんですね。そこに。オルラが。鏡と自分の間に。自分の姿が見えないことで相手がそこにいるのが見えるというなんとも不気味なシーン、後半の名場面です。
ここまで来ると男の精神も限界。もう「オルラを滅ぼすこと」しか眼中にありません。彼はあることを計画します。家の扉と窓に鎧戸を設置させ、この最後の手段を行使する機会を伺います。
そして、ついにその夜が来ました。
9月10日
──私はついに成功した。オルラの気配を感じた私は鎧戸を閉め、奴をひとり寝室に閉じ込めたまま脱出した。奴を封じることに成功したのだ! 何たる喜び! 奴を捕らえたのだ!
ドアに錠前を下ろすと私はすぐに居間へ降りた。ランプの油を絨毯から家具からそこら中に撒き、火を放った。外側から扉に鍵をかけて庭に逃れ、私はそこから家が燃える様子を見ていた──。
お分かりですね。男の取った最終手段、それは放火です。
男は自分の家に火をつけ、建物ごとオルラを焼き殺そうとするのです。
熱風とともに火を吹き出す窓。主人に忘れられた使用人たちの断末魔の叫び。これ、放火殺人ですが。でも男の精神はすでにそこまで考えが及ばないほどに壊れていたのです。
ついに屋根が崩れ落ち、巨大なかまどと化した家。ひときわ大きな火のかたまりが空へと噴き上がります。炎の中で滅びるオルラを想像する男。
しかしはたと気づくのです。この実体のないものが焼けるはずがない。こんな原始的な方法で滅びるはずがない。オルラが消える時、それは憑りつかれた人間の生命が消える時でしかないのだと。
──そうだ……奴は死んでいない。きっと消えてなどいない……。ならば……奴を滅ぼすには……それには……それには……。
……私自身を殺すしかない……!
了。
家に火を放った挙句、最後には自殺を示唆して終わるという、なかなかの後味が残る作品ですが、いかがでしょう。
怪奇現象てんこ盛りの内容は、現代人にはどこかで見た感のあるものが多いですよね。だから現象そのものについて怖いと思う読者はあまりいないんじゃないかと思います。
むしろ怖いのは、日を追うごとに主人公がどんどん狂気の深みにハマっていく様子がありありと見えるところです。理屈を並べることで必死に「正気」の側にいようとするものの、すでにその行動や思考が「狂気」に染まっているという矛盾。最初の体調不良から発展し放火という結末に至るまでのジェットコースターみたいな心の動き。主人公が乗り移ったかのような筆致は鬼気迫るものがあります。
「オルラ」の実体は結局はっきりと明かされることはありません。この名前にしても話の中で男が勝手につけた(聞こえた)ものであり、作者の作った言葉です。
自然主義で現実的な作風と相反するように見えますが、モーパッサンは超常現象や霊のような存在を否定する立場ではありませんでした。何もかも科学的に説明しようとする風潮を嫌っていたからかも知れません。先生のホラー作品群はとにかく説明不可能なものばかりです。
ただ、もう少し現実的に読みたい方には、オルラを男の深層心理が作り上げた化け物として見ることもできると思います。悪夢、夢遊病、幻覚からくる精神錯乱の末に凶行に至るという、ホラーというよりはサイコ的な小説にもなるということですね。
お化けに呪われた男の話と取るか、妄想に憑りつかれ自滅した男の話と取るか。モーパッサンのホラーはその優れた心理描写ゆえに、「怖い話」だけでは終わらない深さと味わいがある気がします。もやもやした後味をお求めの方、ぜひこの作品を覗いてみて下さい。
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