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子どもに恵まれない夫婦の苦しみというのを実際知っているので、子どもに恵まれた側がその思いを汲み取って互いに相容れ合えるかということに焦点をあてると、チュヴァッシュ家は相容れ合うことができず、ヴァラン家は相容れ合えて養子縁組が成立したということなのだと思いますが、相容れ合うことができなかったチュヴァッシュ家が子どもを売り買いしたといった観点でヴァラン家を非難すれば、両家に亀裂は生じてしまいますよね。そこに経済格差まで生じてしまった訳で、考え方の違いが人生に大きく影響することを百姓暮らしのチュヴァッシュ家のシャルロは金持ちの子息として成長したジャンを見て嫉妬心にも煽られて痛感したように思いました。ですから、シャルロがもっと別の人生を歩みたいと家を出たことは、ある意味大人になって自立し、自由を得たことでもあるのですが、親に対して暴言を吐いて家を出る態度は非情だと思いました。
そういった人間心理をモーパッサンは巧みに込めていて、考えさせられる短編ですよね。
作者からの返信
中澤さん、コメントありがとうございます。
この話は誰が悪いとか正しいとか言えない、複雑な心情の混じりあった物語ですね。子どもを「売った」家族を断罪するのはお金への嫉妬心もあり、それを倫理や感情論で正当化していたように見えます。愛情で守った子どもの背中に今度は全部のしかかっているという状態も現実的ですね。子どものため、ってよく言いますが、何が正しいのかなんて誰にも分からなくて、でも他人と比べているうちは自分にとっての幸せはきっと見つけられないままだろうなと思います。
こんにちは。
思い出していたのは、たしか大先生には「幸福」という小説のことです。ある紳士が旅していて、コルシカで道に迷い、僻地でふたりでだけで住んでいる老夫婦のところに泊めてもらうことになります。夫は認知症だったかな。老女のほうは紳士と同じ土地の出身だということがわかりました。紳士は、昔、貴族の令嬢が兵隊と駆け落ちしたという話を思い出します。老女はまさにその令嬢でしたが、こんなみじめに見える生活でも、とても幸福なのでした。紳士が旅から戻って、友人たちにその話をすると、その女性は不幸だとか、そういう話になります。でも、幸福というのは客観的ではなくて、主観的なものだ・・・そんなストーリーだったと思います。
こちらの一冊は、それの子供版で、先生はどのように書かれるのだろうと思って読み始めました。
子供はもらわれるより、実の親のほうで育ったほうが幸せに決まっていますから、そういう話になると思っていました。でも、違いましたね。「最も出来がよく最も残酷な短編のひとつ」、さすがに最もできがよいと言われている小説でした!
ところで、「こんな親を持った子どもは不幸だ。俺はこんな風に生まれたくなかった」と21歳のシャルロは思うのですが、人生はわかりませんよね。不幸だと思っていたことが幸福への鍵だったり、その逆だったり。31歳 の時、41、61歳の時のシャルロはどう思うのでしょうか。
これって、二次小説が書けそうじゃないですか。
たとえば、41歳頃、シャルロとジャンは再会することにしたいです。あんなに幸せに見えた21歳の時のジャンだって、実は何を思っていたか、その時にわかります。幸せは客観的なものではなく、主観的なものですからね。
先生の作品はそこでスパッと終わるのではなくて、そこから広がっていけるのが特徴なのではないかと思いました。
作者からの返信
九月さん、コメントありがとうございます。
「幸福」これもいい話ですね。幸せとは客観的じゃなく主観的なものだ、というのに同感です。いつかこれも挙げてみようと思います。
この話も幸福とはなんだろうと考えさせられますね。実の親が一番、という神話をくつがえすようなシャルロの本音は鋭く、それをぶつけられる親の気持ちとか、色んな立場で色んな見方ができるのが深いなと思います。
10年後20年後というのは考えたことがなかったので、九月さんの二次小説のアイデアとても面白かったです!もし二人の子どもが再会したら、もっと奥にある本音が出てくるかも……その間の人生で何かが変わっているかも知れないし……想像すると本当に広がって行きますね。
先生の作品はそこで終わるのではなくてその先を想像させる、というご意見に頷きました。
これはきついなあ。悩んでしまいます。もう、『エゴとは何ぞや?』の決定版的作品ですね。
金持ち夫妻の厭らしいエゴ、子供を売り飛ばす隣家の打算的なエゴ。しかし、子供を守ったつもりでいる夫婦に対しても、それは愛情という名の一方的なエゴでしかない、と切り捨てる。かつ、それを受け入れることができなくなった青年のエゴ。
正解はないんでしょうね。人は皆、自らの中にとんでもないモノを宿して生きている。だから、幸せになろうとするなら、佳きものをみながら生きていくしかない。
シャルロの両親が、金持ち夫妻の悲しみをまずみたなら。
金持ち夫妻やジャンの両親が、シャルロの両親に誠実をみたなら。
シャルロの両親が、ジャンの両親に自分達とは違う形での愛情をみたなら。
ありがとうございます。じっくりと考えさせられます。深いですねえ。
作者からの返信
呪文堂さん、コメントありがとうございます!
これは登場人物のどれかに自分をあてはめて読む人が多いと思いますけど、全体を俯瞰で見るとそれぞれのエゴが際立って見えますね。それぞれの思惑は、良かれと思いながら結局は自分のエゴを通したいことに他ならないのでしょうか。
語り口だけなぞれば、シャルロが家族の犠牲になったような印象を受けるんですが、これもまた彼のエゴでもあるわけですよね。しかし今まで植えつけられた「愛情を受けている」という優越感がジャンを見てひっくり返るのが残酷です。
ここでは相手の気持ちを鑑みるという部分は一切出てこないので、仰るような「~なら」があれば……うーん、ここまで人間関係が煮詰まってくることもなかったのかも知れません。
これ、多かれ少なかれ、日常で繰り返していることにも思えます。何が相手のためで何が自分のためなのか、線を引くのは難しいですね。
いつもながら丁寧なご感想、ありがとうございます!
え、ここで終わりなんですね! 普通なら波乱の物語がはじまりそうですが、途中で放り出されたような居心地の悪さ。これがモーパッサンの持ち味なんでしょうね。シャルロが出て行ってしまった後の両親の気持ちを思うと切なくて。「最も出来がよく最も残酷な短編のひとつ」と言われるのも納得できる気がします。
作者からの返信
橋本さんありがとうございます。そうです、こうやってバッサリ終わるんです。
「途中で放り出されたような居心地の悪さ」ですね本当に。その後を否が応でも考えさせられてしまうという。誰が正しいとか悪いとかも、作者が答えを出さないのがいいと思います。自分たちが善だと思っていたはずなのに、両親にとってはこんな残酷なことはないでしょう。親子ってなんだろうというエッセンスが凝縮したような話ですね。
私だったら正直、ヴァランさんと同じことをしたかもしれない。4人子供がいて、その1人がお金に恵まれた生活ができるなら、その方がその子にとっても幸せ、何も奉公に出すのとはわけが違う。
そう、考えたでしょう。しかし子供がその子1人だったら絶対差し出せなかったと思います。
じゃあ、子供が2人だったら? やっぱり無理。
これは子供が4人いた、というのもひとつのミソですね。
面白い短編ですね。
作者からの返信
今と昔は子どもの数も違えば一人一人の価値?も違ったのでしょうね。今はすごく子どもを大事にしますけど、こういう家にとっては将来働き手の一人になってもらうだけの存在だったのかも知れません。
何人いたかは確かに大きいですね。一人しかいなかったら出せないかな。でもその子が恵まれた生活ができてお金も運んでくるとしたら…。
堂々めぐりしそうです。
お金と子どもを天秤にかける大人のエゴイズム。それに翻弄される者たちを見詰めるモーパッサン先生の瞳は、人間の愚かな面を炙り出しますね。終わり方が藪の中。それも含めて「最も出来がよく最も残酷な短編のひとつ」と評される所以なのでしょうね。
子どもも大人も幸せの基準は自分のものさしでしか計れないですよね。
「あなたは幸せだね」と人に言われたとしても本人が幸せを感じていなければ、それは幸せではなくて。傍目に不幸に見えても本人が幸せを感じているならば、それは幸せで。幸せの定義について考えてしまいます。なんとも曖昧なコメントをすみませんでしたm(__)m
『女の一生』を読み返しておられるのですね! 大長編ですから、時間と労力が必要かとお察しします。ご無理はなさいませんよう。ゆっくりお待ちしています( ・◡・ )♫•*¨*•.¸¸♪
作者からの返信
もう僕の代わりにひいなさんに解説してもらおうかしら。曖昧どころかとても端的にまとめて下さり、「その通りです!」としか言いようがありません(笑)
幸せの定義……この短編とはベクトルが正反対ですが、御作品もそれを考えさせます。
他人からどう見えても本人が幸せであればやはりそれは幸せで。不幸にしてしまったと思う相手から幸せだったと言われたら、そこで何か救われるのか、とか。
こちらこそ曖昧ですいません。^^;
イタイですよね。人の感情を切り取る物語。モーパッサンの小説には、いつも考えさせられます。
作者からの返信
この展開はイタイですね。この話は短いのに全部の登場人物の感情が見えてくるところがすごいと思います。ぶった切るような終わり方もいいです…。
あどけないバブバブちゃんが、こんなドス黒い運命に巻き込まれることになるなんて…💦
「最も出来がよく最も残酷な短編のひとつ」という評価にも納得です。
シャルロの両親には両親なりの愛情があったはずですが、シャルロにはつらい人生になってしまった。子供の幸せは親が決められるものではないですね。
運に恵まれなかったとも言えますし、シャルロの親に先見の明、状況分析力がなかったとも言えます。子供への愛情が必ず子供のためになるとは限らない一例ですね。
一方、お金を得る代わりに20年も隣家の軽蔑にさらされ続けたジャンの生家も、幸福一色ではなかったはず。農家だから引っ越しもできなかったのかな。ジャンの幸福でやっと報われたのかもしれません。
…と、短編ながら人生の深い意味を考え込んでしまう、モーパッサンならではの名作ですね✨
作者からの返信
同じように育つはずだった二人のバブ、正反対の運命をたどることになってしまいましたね。
精神論では補えない実質的な価値を見せつけられるのが皮肉です。仰る通りシャルロの親に先見の明があったら、感情だけで判断しなかったかも知れませんね。ジャンの親も親で、経済的には潤っても中傷プラス後悔で苦しい日々だったでしょうし。
あの時ああだったら、というひとつの出来事でいろんなことが変わってしまう話のいい例ですね。この短い中に色々詰まっているところ、評価が高いのも納得です✨
普通なら、シャルロが幸せになって万々歳で終わり、子供を売るのは悪いことですという教訓話になりそうですが、お金って大切だよねという身も蓋もないエンディング。
傑作だと思います。
作者からの返信
こういう展開になるとはちょっと想像しませんよね。でもそれぞれの心情を思えばとてもリアルだと思います。最後はやはりお金か…シビアです。
こんにちは。こちらの短編は色々と考えさせられる作品ですね。
私はシャルロが、親を許さないから出て行く!と言えたところが、ある意味自主性が育っているなと感じました。誰が見ても酷い事を子供にする親に対しても、それが言えない子供もいますから。一見「お金に釣られないいい親」がした事を「酷い。養子に出た方が俺にとっては良かった」と言えちゃうって、自分が悪者になりかねない行為な訳で。「自分の人生、自分を一番に生きる」という選択ができた彼は、ある意味幸せに育ったのかも知れません。彼の両親は「裏切られた」と思っていそうですが。
子供は親がコントロールできないという事と、幸せって他人と比べるときりがなく、今あるものに気づき感謝する事も大切だという両面に気づかされる話だと思いました。
※一般的な感想じゃなかったらすみません。でも、もう自分を隠さずに色々な視点から柊さんと話したいなと思いました。なるべく俯瞰で見るように気をつけながら(*´-`)
作者からの返信
葵さん、コメントありがとうございます!
この短編は色んな視点から読めるのでとても興味深いですね。もちろん色んな視点からご感想いただけると紹介した側としても発見があって嬉しいです。
シャルロは自分が家族を背負わされていることを知っていながら、「売られなかった」という自尊心だけを支えに生きてきたんですよね。もう一人の出現でいとも簡単に引っくり返ってしまうのは、彼自身ずっといい子をやって来た反動なのだろうと思います。親にとっては裏切られた思いですよね。
自主性が芽生えた先に、彼にどんな生活が待っているのかは読者の想像にお任せ、というところでしょうか。ただ誰かと自分とを比べて出した答えはあまり良い方向には行かないかな、とも思います。
ざっくばらんにご意見ご感想頂けると嬉しいので、これからもご遠慮なくお願いします^^