報われぬ愛は不幸なのか「椅子直しの女」②
絶望した女はその夜池に身を投げました。幸い助けられ、薬屋に担ぎ込まれます。薬屋はそれが椅子直しの女と気づかぬ様子で、
「なんてことをするんですあなたは! こんな馬鹿なことしちゃいけない!」
と言いながら必死に手当てしてくれました。
──ああ、なんてあたしは幸せなんだろう──。
彼のこのひと言だけで彼女は生き返るんです。自分に話しかけてくれた。それだけで彼女は幸せになれるのです。しかもお礼など要らないと言ってくれた。女はそこからずっと彼だけを想って生きて行きます。
そして年月は過ぎてゆきました。彼のいる町に来た時は必ず薬屋で買い物をし、その愛しい姿を目の前にし、口をきける幸せを噛みしめます。彼女は椅子直しの仕事で得たお金を、食費を削ってまで貯めていきます。ただ彼のことだけを想いながら。
そしてついに臨終のとき。
女はこれまでにたくわえた2千300フラン(約230万円)の金を薬屋に渡すようドクターに頼み、息を引き取りました──。
ドクターは彼女に託された想いを告げるべく、薬屋を訪れます。そしてきっと彼が感涙にむせぶことだろうと想像しながら、女が隠していたその強い恋慕の気持ちを代弁してやります。
ところがです。
その話を聞いた薬屋はドン引き。椅子直しの分際でなんと図々しい! 汚らわしい! あの女に愛されるなど名誉を傷つけられたも同じだと言わんばかりの顔。
彼の妻はおもいっきり怒りをあらわにして、「あの売女…売女…! 売女…!」(他にボキャブラリーがないらしい)と繰り返す。
薬屋はイライラと大股で歩き回り、
「先生、分かります? 男にとってこれがどれだけ吐き気のするような話か! もし生きてる間に知っていれば警察に突き出して牢獄に閉じ込めてやるところですよ!」
ドクターは予想もしていなかった男の反応に言葉を失います。が、遺言を伝えるのが使命と思い直し、こう言います。
「あの人はね、あなたのために2千300フランを遺したのですよ。しかしそれほどまでに汚らわしいとお思いなら、貧しい者に寄付することにでもいたしますか」
2千300フラン?!
それを聞いて最初に反応したのは妻の方でした。
「あ、いや、せっかくねえ、遺してくれたんだから、お断りするっていうのは……ねえ、あなた」
薬屋も呆然とした様子で、
「あ、ああ。そうだなあ、子どもたちのために何か買ってやれるしなあ」
おいおいお前ら。
なんだその変わりよう。
読む方はきっとそう思うはず。作者はこれ狙ってます。お金を目の前にした人間ってのはねえ、こうなるんだよ。って。
ドクターはこの夫婦に辟易して、
「あなたがたの好きになさい」
と乾いた口調で言います。
「もらっておきますよ。その女が我々のために、って言うんならね。きっと何かいい使い道もあるでしょうし」
ドクターは金を置いて去りました。
翌日薬屋はドクターのところにやって来て、女が残したキャンピングカーはどうすればいいか尋ねます。
「よかったらお使いなさい」
「じゃちょうどいい、菜園の物置小屋にでも使います」
「ああ、そうだ。彼女の年老いた馬と2匹の犬がいるんだが、引き取ってもらえるかね?」
すると薬屋は驚いた様子で、
「ええ? そんなもん貰ってどうしろというんです。適当に始末したらいいじゃないですか」
役に立たないものは一切興味がない、とでも言いたげに笑っています。
ドクターはこの意地汚い薬屋と握手して別れます。本当は罵声を浴びせかけたいところでしょう。でも医者は薬屋を敵に回してはいけないのです。それが大人の事情。
犬はドクターが引き取り、馬は教会の神父が引き取りました。そして薬屋は女の遺してくれた金で鉄道会社の債券を購入しました。醜い者ばかりがこうやって金を手にし、ブクブクと肥え太る。社会っていうのは、ここまで理不尽なんだろうか……。
この話には色んな要素が同時に埋め込まれています。職業に対する差別。欲に目がくらんだ時の人間のさもしさ。そして、全編を通して語られる、貧しい女の一途な愛。
この椅子直しの女は不幸だったのでしょうか。
僕はそうとも限らないと思う。彼女はこの世で一番大切な男のためにせっせとお金を貯めることで、それを唯一の生き甲斐にしていたんじゃないだろうか。自分が死んだあと、この金を受け取って男が嬉しそうな顔をするところを思い浮かべ、あの昔の少年の笑顔と重ねて幸せな気持ちになっていたんじゃないだろうか。だとしたら、この女はけっして不幸ではなかったと思うのです。
叶わない想いだからこそ、何十年も持ち続けられたのかも知れないし、手に入らない相手だからこそ夢を見続けることができたのかも知れない。
だから、この女はすごく幸せな気持ちで死んでいったのだと、そう思うことにしています。
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