本当の親子になる日「シモンのパパ」③

 その夜、フィリップは日曜日用の清潔なシャツを身につけ、ひげを整え、ブランショットのもとへ向かいました。


 ブランショットは夜更けに現れた男を見て動揺します。

「こんな時間にいらしてはいけません、フィリップさん」

 思わず口ごもってしまうフィリップ。ブランショットを前に、口下手な彼はうまく言葉が出てきません。


「お分かりでしょう。私はもう、村の人たちから悪い噂を立てられたくないんです……」

 彼女は口さがない村の人たちがフィリップと自分の間を噂しはじめているのを知っていたのです。隠れるようにひっそりと生きているのに、もうこれ以上辛い思いはしたくない。


 するとフィリップは思い切ってこのひと言を放ちます。


「それが何だというのです。そんなことはもう気にしなくていいんです、もしあなたが僕の妻になってくれるのなら!」


 渾身のプロポーズ──!


 短い沈黙のあと、「部屋の暗がりの中で女の体が力を失う音を聞いた」フィリップは、扉を押し開けて初めて家の中に入っていきます。

 今まで張りつめていたブランショットの防御の心の糸が、フィリップの真剣な求婚によってぶつりと切れた瞬間。彼が家に入っていくだけのこの一行の描写の中に、もう苦しむ必要はない、お前は幸せになっていいのだと、神様が、あるいは作者が彼女に語りかけたように思えます。


 そして。

 ベッドに横になっていたシモンは、口づけの音と、母が何ごとか低く囁いた声を耳にします。すると突然自分の体がふわりと持ち上げられました。ヘラクレスのようにたくましい腕に抱きかかえられ、シモンは男の力強い声を聞きます。


「いいか、学校の連中に言ってやれ。お前の父ちゃんは、鍛冶職人のフィリップ・レミーだ。お前を虐める奴は俺が容赦なく耳をつねってやると、そう言ってやれ」


 このセリフはまるで勝利のファンファーレのようにシモンの耳に響いたに違いありません。夢が叶った。苗字が与えられた。もうごっこ遊びではない、彼はついに本当の父親を得ることができたのです。

 次の日学校に行ったシモンは、口を震わせながら、クラスの前ではっきりと宣言します。

「ぼくの父ちゃんはフィリップ・レミーだ。ぼくのことを虐める奴は、父ちゃんが耳をつねってやるぞ」

 クラスの誰一人として笑う者はいませんでした。だってみんな分かっていたから。鍛冶職人のフィリップ・レミー。それは誰もが誇りに思えるような、理想の父ちゃんだ、って。


 了。


 ……ごめんね、やっぱり涙腺が。ちょっと鼻をかませてください。僕はフィリップがシモンに言うセリフの時点でもうすでにやられてしまうんです。


 ここから先は蛇足なんですけどね、この話にはモーパッサンのイメージする理想の男、理想の父親像が描かれていると思うんです。

 モーパッサンは10歳の時に両親が離婚してて、弟とお母さんとで暮らしてたそうです。移り気で実体のない父親だった、と注釈に記してあります。この時代に離婚をするっていうのはよっぽどのことだったと察するしかありません。


 作者の思う理想の男。

 それはまさにこの物語の鍛冶職人たちの姿です。たくましい腕をあらわにして黙々と鉄を鍛え続ける男たち。彼らの重たい思考が槌とともに振り上げられ、振り下ろされる。彼らは寡黙であり、感情を表に出さない。自分の顔を照らす真っ赤に焼けた目の前の鉄を、ただ鍛え続けるのみ。

 この鍛冶場の描写は、もう男の匂いがプンプンしそうな感じなんだけど、同時にすごく色っぽくもあるのです。黙々と働く男の周りには火花が散る。本当の男が出す色気ってのは、飾ったものじゃなくて、こういうところからおのずと醸し出るもの。モーパッサンはこの鍛冶職人たちをそういう風に描いてるようにも見えるんです。


 で、その延長上に理想の父親像というのがある。それはヘラクレスのように強い父ちゃん。たくましくて物事に動じない。子どもが何人その腕にぶら下がっても「ハッハッハ」とか笑ってそうな。母ちゃんに心底惚れていて、全身全霊で母ちゃんや子どもを守っている。そういう自分が理想とする男とか父親の姿を、このフィリップって男に託したんじゃないかな。


 「シモンのパパ」は彼の作品の中でも「おとぎ話」的な存在として特殊な位置にあるらしい。確かに基本的には後味の悪い作品が多い中で、この話は無条件にハッピーエンドだし、そもそも子どもが主人公ってのも珍しいし、おとぎ話といわれるのも分かる気がします。モーパッサンらしくない、と言えばそうなんだけど、この話には彼の持つ「善」がいっぱいに充満していて、なんとも言えない優しさに溢れていると僕は思うのです。


 最近きれいな涙を流してないなあ、と思う方がいるなら、騙されたと思ってちょっとこの物語を読んでみて下さい。気持ちよく泣かせてくれますよ。




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