夫に欠けていたものとは──「初雪 Première Neige」
日本もそうですが、フランスでもひと昔前は見合い結婚がほとんどの時代。女性の側に選択肢はありません。家庭の事情で親が決めた相手と結婚する。もしもその相手が優しい夫であれば、まあ幸せな結婚といってもいいでしょう。でも、自分のことを決して理解してくれず、おのれの価値観だけを押しつけてくる夫であれば……?
彼女はパリで育った都会っ子。親の命令でノルマンディーのある男の家に嫁ぎます。夫は体格がよく、たっぷりとひげを生やし、豪快によく笑う。気のいい田舎の金持ち、といったところでしょうか。そして、非常にアウトドア派。
うっそうとした森の中に立つ石造りの古い屋敷を見て、彼女は思わず「ちょっと陰気くさいわ」と呟きました。すると夫は、「なあに、すぐに慣れるさ。ここじゃまず退屈するってことはないよ」と笑います。
最初のうちはよかった。新婚の家庭を築くことに夢中になれたから。でも秋になり、夫が毎日狩りに出て行くようになると、彼女はだんだん分かって来るのです。夫が退屈な男だということが。聞かされるのは毎日狩りの話ばかり。自分の趣味の話ばかり。彼女は相槌を打ちながらもぼんやりと別のことを考えてしまう。
冬が来ました。ノルマンディーの冬は毎日のように冷たい雨が降ります。
僕は1月の北ノルマンディーに行ったことがあるんですが、悲しい寒さ、とでも言いましょうか。気分を落ち込ませるにはうってつけの気候です。悩みがある時に冬のノルマンディーはまずお勧めできません。悩みがさらに悪化します。
だから、都会っ子の彼女にとっては当然、体の芯から凍りつくようなこの寒さは心身ともに厳しいわけです。がらんとした広い屋敷にはじっとりと湿った冷気が絶え間なく忍び込み、とても暖炉の火なんかでは足りません。ついに雪が降り出す頃になって、彼女は恐る恐る夫に頼みます。
「……私、この寒さには耐えられないわ。どうか
カロリフェールとは、今でいう中央暖房のようなもの。温水を循環させて部屋全体を暖めるというけっこう大規模な装置です。それを聞いた夫は爆笑。
「なに、カロリフェールだって?! お前はとんでもないことを言い出すねえ」
「あなたはいつも動いていらっしゃるからお分かりにならないのよ。このままでは私、家の中で凍えてしまうわ」
「おれたちはひ弱なパリ人とは違うんだよ。寒さってのは体にいいんだ。そんなこと言ってる間に春が来るさ」
願いは聞き届けられず、彼女はひと冬を過ごしました。
彼女には悲しい知らせが続きます。両親が事故で亡くなったこと。自分は子どもの出来ない体であると言われたこと。彼女は初めて、自分の暗い未来について思いを馳せます。何の望みもない、ただこうして続いていくだけの日々。明日も明後日も、来年も、ずっと……。
そして、また冬がやって来ました。重たい鉛色の空。身が切れるような寒さ。彼女は再び暖房を置いてくれと頼みますが、夫は聞き入れません。湯たんぽをひとつ買ってきて、
「ほら、携帯式カロリフェールだよ」
笑っています。絶望した妻は夫の機嫌を窺うように、
「それなら私、パリに遊びに行きたいわ。気晴らしにどうか連れて行ってくださいません?」
「はあ? パリだと? お芝居か、レストランか? くだらない。お前はこのノルマンディーの大自然が何よりの気晴らしになることが分かってないんだな」
「だって私、なんだか無性に悲しくって。それに……ここは、寒すぎるわ……」
「くだらん」
夫にとって都会の生活など軽蔑の対象にしか過ぎません。彼女のささやかな気晴らしは都会人の贅沢としか思えない。妻がだんだん鬱状態になっていくことに気がつかない。暖房を置くことなど、月を取って来いというぐらいの夢みたいな望みにしか聞こえないのです。
「だいたい口を開けば寒い寒いって。お前はここに来てから風邪ひとつひいたことがないじゃないか」
弱った心と体にこのひと言はグサリときました。
その夜、妻は寝巻のまま、深く雪の積もる森へ出ました。
──風邪をひけばいいのだわ。咳をすればいいのだわ。そしたらあの人、きっと暖房をつけてくれるわ──。
足がちぎれるような冷たい雪の中をほとんど裸の姿で歩く妻。それだけでは足りず、家に戻る前に念のために雪を胸にこすりつけさえします。
彼女は願い通り、病気になりました。夫は医者に言われるまましぶしぶ暖房を設置しました。しかし彼女の肺炎は、すでに治らないところまできていたのです。
今、彼女は療養のため南仏にいます。胸が裂けそうな咳が出る。来年はもうこの世にいないかも知れない。でも彼女は幸せです。二度とノルマンディーに帰らなくていいのだから──。
新聞の「パリで初雪」という見出しをみて身震いをする。折りしも夫から手紙が届いている。
『お前がこの美しいノルマンディーを恋しく思っているのは分かってるよ。そろそろ雪が降る頃だ。おれはこの季節が大好きだ。だからお前が設置させたあの忌々しい暖房もつけないでいる……』
おそらく彼女が亡くなるまで夫は何にも気づかないのでしょう。「暖房」というキーワードに象徴されている「相手を思いやる心」。これが夫には決定的に欠けていたのです。
夫婦というかたちを取りながらも平行線を辿り続ける二つの心。心が休息を得た時には、すでに体が終わりを告げようとしている皮肉。
淡々と語られるところが余計物悲しさを浮き上がらせるお話です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます