あたしの方があんたよりずっと──「寝台29号」②
──会いたいだと? 馬鹿にしやがって。俺が同僚に笑われてるのを知りもしないくせに。
彼の頭の中は今やイルマに対する憎悪でいっぱいです。だって、彼は自分の名誉を傷つけられちゃったんですから。
しかし危篤と聞いて「しょうがなく」エピヴァンはイルマの病棟に向かいます。
ちょっとね、想像してみて下さい。あなたが勲章付きのりっぱな軍服を着ているフェロモン全開のいい男だとします。そんなあなたがですよ、死にかけの梅毒患者の病室に行かなければいけないんです。しかも個室じゃなく、同じようにやせ細った梅毒患者の女たちが、もうギンギンに好奇心まる出しの目であなたが通路を通るのを見てるんです。
多分耐えられないよね。プライドが。
開口一番「何の用だよ」とこれです。
「あなたにお別れを言いたかったの。私、もうダメみたい」
「あのさあ、俺は隊の中で嘲笑の的になってるんだ。こういうのもうやめてくれよ」
「え? 私が何をしたというの?」
「俺は周りから馬鹿にされるのがたまらないんだよ。もう来ないからそのつもりでいてくれ」
イルマは傷つきます。
「私あなたに優しくなかった? 何かあなたにわがまま言ったことある? あなたに会わなかったら今ごろ私はこんなところにいなかったはずよ。私を責めるのはお門違いだわ」
ムカついたエピヴァンは言ってはいけないことを言ってしまいます。
「お前がプロイセン兵の公衆便所だったってな、街中で噂なんだよ。それで俺までが笑いものにされるんだよ」
これを聞いたイルマはついに本当の気持ちを明かします。
「私だって治そうと思えば治せたわ。でも私はそうしなかったのよ。これは私の復讐なの。あいつらにうつしてやろうと思ったのよ。私はあいつらを殺したかったのよ。だから殺してやったのよ!」
そうです。イルマは他のプロイセン兵に梅毒をうつすことでプロイセン軍に復讐をしようとしたのです。これが彼女のレジスタンスだったのです。
でもエピヴァンは体裁しか考えていません。
「こんな不名誉なことを……」
名誉とは何でしょうか。彼は勲章をもらいました。彼にとっての名誉はそれでした。でもイルマにとっての名誉はそんなことじゃない。
「あんたは勲章をもらってお得意ね。でもあたしの方がその価値があるわ。だってあたしはあんたよりもっと沢山のプロイセン兵を殺したんだもの! あんたはプロイセンがルーアンに侵入して来ることさえ防げなかったくせに。もし防げていたならあたしはこんなことになった? あたしは自分の体を張って敵を殺したわ。あんたよりずっとずっと沢山の敵を殺したわ──!」
このあたりのイルマのセリフは鬼気迫るものがあります。グサグサきます。
「あたし分かってたわ。あんたはうぬぼれの強い気取り屋よ。あたしの方があんたよりずっと沢山の敵を殺したわ! あんたの軍隊よりずっと沢山の敵を殺したわ!」
イルマは息もたえだえにこの言葉を繰り返しエピヴァンに浴びせかけます。エピヴァンは耐えられなくなって、他の患者の目にさらされながら逃げるように病室を出て行きます。その背中にはまだこのセリフが投げつけられます。
「あたしの方があんたよりずっとずっと沢山の敵を殺したわ……!」
翌日、エピヴァンはイルマが死んだという報せを受けます。
体裁だけのうぬぼれで生きている男と、絶望を逆手にとり、体を張って信念をまっとうした女。この対照が最後の2ページぐらいで鮮やかに描き出されています。前半(戦前)のラブラブでハッピーな二人と、後半(戦後)のコントラストもすごい。戦争によって人間の運命が、心が、こうもはっきりと分けられてしまう残酷さを、モーパッサンはちゃんと描いています。
読んだ後大きくため息が出るようなずっしりした話。愉快な話ではありませんが、作家の人間性が出ている気がして、僕はこの短編がすごく好きです。
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