マルセイエーズの意味──「脂肪のかたまり」②
つづきです。
一行はようやくトートという町で一泊します。で、さて翌日出発って時に、
「あれ? 馬車がない。御者がいない」
足止めを食らうのです。
なぜか。
ここに脂肪のかたまりを見て舌なめずりをしたスケベ野郎がいるんですね。この町にすでに侵攻していたプロイセン軍の士官です。この男はこっそりと脂肪のかたまりを呼び出し、
「ワタシとイイことするまで、みんなまとめて出発はお預けだよん」
と脅すんです。汚いですね。
脂肪のかたまりはフランス人としてのプライドが非常に高い女性です。だからこんな敵国の士官になど屈するものかとその誘いを蹴飛ばします。
事情を知った他の人間たちも、「なんと卑劣な!」と怒り、「あたしたちあなたの味方よ!」と彼女を慰めるのです。
でもね、そんなのはキレイごと。二日経ち三日経ちと出発が延期されるにつれ、同行者たちは苛立ち始めます。
「彼女のせいで我々まで足止めを食らっている」
「どうせあの女は娼婦なのだから、あのプロイセン人と一回ぐらいつき合ってやればいいのに」
ぽろぽろ本音が出てきます。
ついにはみんなして、なんとかプロイセン大将と一夜を共にするよう、脂肪のかたまりを説得しにかかります。だけど、「あんたがあの男と寝てくれたらおれら助かるんだけど」なんてダイレクトな言い方をしません。
そう言ってくれた方がよっぽど正直だと思いますよ。でも、彼らはありとあらゆる比喩だの昔話だのを引用して、いかにもその犠牲が清く美しい行為であるかのように語りかけるのです。修道女までもが彼らに同調して、「動機が純粋であればいかなる行為も許されるのです」などと言う始末。
これ、すべてエゴイズムの正当化です。
結局、脂肪のかたまりは同行者たちの圧力に屈し、プロイセンの大将と一夜を共にします。そしてめでたく翌日の朝、彼らは馬車の旅を続けることになります。
しかし、彼らは脂肪のかたまりを「目に入らないかのように」無視し、「汚いもののように」避け、「そのドレスの中が菌にでも感染しているかのように」遠巻きにします。
ここからモーパッサンの筆は残酷に人間の心の偽善と本音を暴露していきます。手のひらを返したように偽善の化けの皮を剥いで、自分さえよければいいというエゴイズムを次の場面で見せます。
脂肪のかたまりは昨夜の今日で自分のお弁当を用意することができませんでした。他の乗客たちはしっかりちゃっかり自分たちの分を用意しています。そう、来た時と正反対の状況です。
そのうち一組の夫婦が食べ始める。もう一組も食べ始める。修道女すら食べ始める。
でも、お弁当のない脂肪のかたまりに食べ物をあげようという人間は、ひとりもいません。
「だって自分たちは関係ないもの」
初めは怒りに震えている脂肪のかたまりですが、ついにはこらえ切れなくなって涙を流します。犠牲者の涙。国を思って、仲間を思ってしたことが、こういう仕打ちで返って来るのです。
乗客の一人である民主党員の男が「ラ・マルセイエーズ」を口笛で吹き始めます。他の乗客はそれが我慢なりません。なぜならこれは、彼らのブルジョワ意識の偽善を皮肉っている態度だからです。
この当時、マルセイエーズはまだフランスの国歌ではありませんでした。第二帝政のもとではこの歌は反逆を意味する歌だったそうです。だから、保守層にとってはこの歌を聴かされることは喧嘩を売られてることになるんですね。
そしてこの男自身も、他の連中の偽善を目にしながら自分もそのおこぼれを預かっているという自嘲があるように思えます。尊厳を踏みにじられた女のために、マルセイエーズを吹くことで、励ましたつもりでしょうか。それともほんの小さな罪滅ぼしをしたつもりでしょうか。
脂肪のかたまりは馬車の中でずっと泣き続けている。そんな場面で物語は終わります。胸がぎゅうっとなるような終わり方です。
僕ね、かいつまんで話しちゃったんですけど、とにかく全部読んでみて欲しいです。短い話の中に人間の感情のドロドロしたものがぎっしり凝縮されています。外側の美しさと内側の陰険さがくっきりと描かれてます。だからこそ、犠牲者となる脂肪のかたまりが際立って清く見えてくるのです。
モーパッサンの入り口として「脂肪のかたまり」はすごくお勧めです。ラストシーンはどうか彼女と一緒に泣いてあげてください。
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