169 【挿話】名付けの蒼花①






これは、むかしむかしの物語。



西部と北部の境。その場所はいつも靄が立ち込めていた。


おおきな岩山がいくつも隆起し、そのくぼみには、澄んだ湖が雨上がりのあとの水たまりのように点々としてある。


生き物は少なく、岩に薄く積もった土に、草がなんとか根を付けて、短い季節に蒼花を咲かせるような、そんな土地。


豊穣とは言えないけれど、そのぶん純粋で澄明で、静謐さがあった。


そこには精霊が住んでいた。


精霊は女型めがたをしていた。は四肢をくさ地に無造作に放り出し、空を見て、雲を数えていた。


惜しげもなく衣から突き出した、白くなめらかな腕や足。青々としたくさ地に広がる銀髪。


美しいそれらを惜しげもなく陽に晒し、そよぐ風に任せる。


ぱしゃり、と魚が水面を叩く音。そしてまた静かになる。


その精霊は退屈していた。たいへんに退屈していた。


何しろ、精霊は生まれたときから精霊だった。なぜだか、初めからいろんなことを知っていた。精霊の法も、自然の美しさも、街のにぎやかさも、村の素朴さも知っていた。


だが精霊の周りには、その知っていることを語る相手がいなかった。言葉が通じる生き物が居なかったからだ。湖に住む魚に意志を命じることは出来たけれど、そんなことをしてもすぐに飽きた。


「たいくつじゃー・・・」


繰り返しになるが、精霊は退屈していた。とても。


だから、近くの村から漁の小舟を操って好奇心にまかせてここまで来たという、物好きな青年ーーべつに興味があるわけでもないーーーを、すぐに追い返すこともしなかった。


青年は一度この場所に来てから、たびたび精霊の元に訪れるようになっていた。


「なあなあ。あんた、名前はなんていうんだ? オレはーーーっていうんだけど」


「名などないわ。精霊じゃからな」


「名前が無いって? じゃあ親は?」


「小うるさい孺子ガキじゃのう。無より顕れるのが精霊よ。ゆえに親も名もないわ」


蒼い花弁の花が点々と咲く、岸辺。青々とした草の上に寝転がったまま、面倒くさそうに女型の精霊は答えた。


ふぅん。と青年は言った。


「じゃあ年齢としは?」


「あ? そうじゃなーー」と、精霊はしばらく考える。「とおは越えておらぬな」


「じゃあ、オレのほうが年上じゃねぇか! オレは今年19になったぞ!」


「知らぬわ」


「いまので知っただろう。年上は敬うべきものなんだぞ」


「わらわは精霊じゃ。そんなもの、じきに追い抜くわ」


えーっ・・・。青年はしばらくぼんやりし。


「いや、精霊だって年は追い抜けないだろ! 騙されるか!」


水の精霊にしてみれば、暇をみてはやってくるその青年はうるさい存在だったけれど、退屈がまぎれたのは事実だった。


それに、彼と会話を通して、近所の村の事情とか、美味しい魚の見分け方とか、いろんなことを知った。ちょっと抜けたところはあるが、人好きしそうな、親切な青年だった。


「なあ。あんたの名前をつけてやるよ」


「いらんわ。わらわは、わらわじゃ。それ以外の何者でもない。水の大精霊で、最強で、万能万癒。唯一無二の存在じゃ。名など、あっても使わん」


「でもそれじゃ、オレがあんたを呼ぶときに不便だ」


「いままさに呼んどるじゃろ。おーいとかあんたとか。わらわは寛容じゃからな、多少の不敬は許しておるのじゃぞ?」


「ん、じゃあちょうどいい。名前をつければ、そのふけーの問題も解決だ」


「む・・・」


なかなか引き下がらない青年に、女型の精霊は形の良い唇をとがらせた。こうしてみると、ただの少女にしか見えない。


いい名前をさ・・・


言いながら、青年はそこに生えていた蒼い花を摘んだ。とおの花弁、真ん中の雄しべは紺色、内側は白で縁が蒼。色が空のように移り変わるその花は、摘み取られても清楚に揺れる。


「・・・考えたんだ」


小さな花束を、青年は地面に寝転がっていた精霊の胸元へと差し出した。精霊は上体を起こし。


「サフィリア・・・ってのはどうかな。この花にちなんでみたんだ」


精霊は、差し出された花束を受け取って、言われた名前を口の中でつぶやいてころがすと、にぃと歯をむき出しにして笑った。そして花束から一番大きいもの一本を、耳にすっと挟んだ。


長い銀髪を、蒼い花弁が飾る。


「・・・ふん。悪くないではないか」


精霊は、傲岸な笑顔を浮かべた。


「いいじゃろう。わらわはこれよりサフィリアと名乗ってやろう」


青年は安堵してそして大喜びし、サフィリアもそれをみて、また笑った。





けれど、それから青年がサフィリアの元に来なくなった。


青年が住む村は、教えられて知っていた。7つの日が過ぎたとき、サフィリアは初めて生まれた湖を離れ、その村へ行ってみた。


小さな漁村だった。そこでサフィリアは奇妙なものを見た。木製の大樽を天秤棒で大人二人で担ぎ、それを挟むように人々が列を作って練り歩いていた。


ひどく胸騒ぎがして、彼女は人の列に割り込んだ。そして、周りの人が止めるのも聞かず、大樽の蓋を外した。


そこに、知った顔の青年が居た。目は閉じられ、口に綿を含まされている。そして、頭に大きな傷がある。


「こんな傷ぐらい・・・!」


サフィリアは水魔法を使い、青年を癒やした。頭の傷はあっという間になくなった。だが、青年の顔に生気は戻らない。


「なんじゃ・・・わらわは万能なはずじゃ! こんな、こんな・・・こんなはずでは」


叫ぶように言いながら、しかしサフィリアは理解していた。自分の魔法は、どんな傷でも癒せる。


だが、傷は治せても、失われた命は取り戻せない。つまり、そういうことなのだ。


「おじょうちゃん、こいつと良い仲だったのかい? こいつぁは船の達者だったんが、運悪く川に落ちたとき、打ちどころが悪くてな・・・。つらいな ・・・おう、いくぞ」


言葉の最後は、葬列の参加者への呼びかけだった。葬儀執行人の大人の男は、サフィリアにひと声だけかけて、中断された葬列を再開させた。


大樽の座棺は天秤棒とともに持ち上げられ、離れていく。


水の精霊は、しばらく、その場にへたりこんでいた。


列が去って、虫の声がするまで、そうしていた。





■□■





「たいくつじゃのー」


白い手を伸ばし、指の隙間から真っ白い雲を見る。


それから幾度となく季節が巡った。いまは何度目の夏なのか・・・はっきりとサフィリアは数えていないが、覚えている限りでは300は巡った。ずっと同じ湖に居続ける彼女を、地元の神様だと呼ぶ者もいた。否定するのも面倒で、そのままにしていた。


あれから、村人たちと出会い知り合いになることが、たびたびあった。知り合って、けれど皆死んでいく。毎日身を粉にするようにすり減らして働く辺境の漁民の寿命は短い。あのとき声をかけてくれた葬儀執行人も、当たり前だが、もうこの世にはいない。ひいひい・・・なんとか孫がいるとは聞いたが・・・。


サフィリアだけが変わらず残っている。


「・・・ふん。人間はもろいの。勝手に死んでいく」


わらわを残して。


サフィリアはときおり湖を渡り、川をくだって村へ行く。


そして、顔ぶれが変わっていく村の人々を、遠くから眺める。


年に一度の冬前の祭りのときが、いちばん好きだった。にぎやかで、騒々しくて、つまらない漁村もそれなりに飾り立てられ、人々も一張羅を引っ張り出して着込み、食べて飲んで歌い奏で踊り楽しむ。若い男女は、胸のうちを告白し、思い思いに想い人と楽しく特別なときを過ごす。犬ですらおこぼれにあずかって機嫌よく尾を振る。


けれど、やがて村はなくなった。漁では生計が立たなくなったので、新しく見つかった鉱山へと引っ越したのだ。地元の水の精霊、あるいは神様はーー当然のように独り残った。


記憶の底に、祭りの風景が残っている。篝火をありったけ焚き、昼間のような明るさ。それよりも、祭りに参加したひとたちの楽しそうな笑顔がまばゆい。


それ以外の時間は、あれほど長く過ごしたのにーー過ごしたからか、記憶が薄い。


生きることも同じだ。長くても短くても、祭りのようなまばゆい瞬間がある。


サフィリアの場合は、あの名前をつけてもらった一瞬がーーなんでもない出来事だったはずなのに、いつの間にか彼女のなかで大きくなって。特別なものになっていた。


寿命の長さなど、どうでもいいと思った。つまらない時間など長くても仕方がない。


生き物は、輝くときがあるかどうかだ。


長く生きる自分だからこそ、輝く時間の貴重さがわかる。いや、短い時間を生きる者こそ、その生命を燃やすことの大切さと、そして燃やし方を知っているのだろうか。






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