46 『ぬこぬこもふもふ』





日が暮れて、夕食後のひととき。


今日もふたつの月が星空に昇っている。


わたしは書きものをしながら、追いかけられる月と追いかける月、そのふたつをみながら、ふとごちる。


異世界から転生してきて、11年が経った。前世の年齢と合わせれば、もう38年も生きていることになる。それなのに、精神は老けるどころか、むしろ前世よりも幼くなっている気がする。今回の人生の決断ーーお祖父様についてリンゲンに行くことを決めたことだって、大人の思慮というよりは、子供の感情を優先させた結果のような気がする。メアリさんが出ていくときだってそうだ。


ーーやはり。肉体に精神が引っ張られているのだろうか。肉体と精神は別々のものであるようで、実際には深く密接にリンクしている。肉体が不調なら精神も不調になり、肉体の調子があがれば、精神も自然あがる。その程度には関連性があるものなのだ。


子供のように振る舞うなら、前世の記憶を持っているというアドバンテージも、全然活かせていないということになる。とはいえ、今の生活で、前世の記憶が役に立つ場面などそうそうない。そして、今すでにそれなりに幸せになってしまっている。前世の記憶を活かして、この生活を強いて変える必要もないのだーー。


わたしは熱いジャンソ湯を口に含む。甘さと独特な爽やか刺激が口内を通り抜けていく。身体を温め血の巡りを良くする薬効があるこの飲み物は、最近のわたしのお気に入りになってきている。

そしてーー。


うん、そしてね。


いったいいつからだろう、サフィリアが、あのスマホにしか見えない『とーみぃ』を使いたいからと言って、この時間帯にわたしの部屋に通うようになったのは・・・。


精霊のことを普通の人間に聞かせるべきではないから、外だと誰が聞いているわからないと言って理由をつけて、わたしの部屋に居座るようになったのは・・・。


「ふっふーん。本当じゃぁ。もうわらわは立派な『勤労者』。朝早く起き、きっちりと昼間働く手に職を持った存在となった。いそがしいのじゃ、わらわは」


『とーみぃ』を片手に、メイド姿の銀髪の水精霊ーーサフィリアが、話している。遠隔の土地とでも通話ができるということで、毎晩どうやら友達の精霊とお話しているらしい。


「うん? 本当に決まっておろう? 僻地でひがな一日、来もしない人の賢者の訪れを待つ泉の守り人のそなたとは、もう違うのじゃ。 ところで・・・えっ、それはまことか? わははは」


部屋の端におかれたソファでごろんごろんと転がりつつ話すサフィリア。


あれ・・・わたしっていつの間にルームメイトを持ったんだろう。


いやそうじゃない。ここ、わたしの部屋だってば!


「賢者に杖を与えるのがお役目なのに、その本人に会ったことがないとな? しょーもないのぅ。え? それは先々々代・・・くらいの話じゃろ? もう20年くらい同じ自慢話をしとるぞ、そなた。え、いーやいやいや、おなじじゃ、おんなじ! ぎゃはは」


このままでは、わたしの部屋はあの非常識で無神経な精霊に乗っ取られてしまう。ルームメイト同士は、舐められないのが肝要だ。大声で電話・・・電話としか思えない馬鹿ばなしを続ける精霊に、びしっと! ばしっと! 言ってやることにする。


・・・・・・。


いや違う、ルームメイトじゃなくて、あの精霊の主人として! しっかりとわからせてあげなければいけないのだ。


ふんす! とわたしは気合を入れて、ライティングデスクから立ち上がって離れる。


そして水精霊が寝転ぶソファへ向けて、一歩を踏みしめるようにして向かう。ほんの数歩の距離だけど。


「ひがな一日、森深い泉で、待ち人を待ち続ける・・・それはお仕事じゃないのう。やはりそなたは『にーと』じゃな! わははは! どうじゃ、もう泉をそんな辺鄙なところじゃなくて街に引っ越したら。泉の水が汚れる? また些細なことにこだわるのう」


「えっ・・・」びしっと言ってやろうと息を吸い込んだところだったわたしは、珍しい言葉を聞いて、止まった。「サフィ、いまあなた、『ニート』って言った?」


「お? あるじさまのお声がけじゃ、答えねばならぬ、ちょっと待て・・・ほんとじゃ。疑り深いのう! 暇だと性格がねじくれるものか? 良いから黙って待つのじゃ!・・・またせたの、あるじさま。なんじゃ?」


寝転がった姿勢から起き上がったサフィリアを見下ろしながら、わたしはさっきと同じ質問をする。


「サフィ、いまあなた、『NEET』って言った?」


「ふむ、正確な発音は知らぬが、なんか綺麗な発音じゃのう・・・それはともかく、うむ、たしかに『にーと』と言ったぞ」


「意味は・・・どういう意味?」


「『働いてないやつ』のことじゃろ? 精霊界の流行語じゃ。あるじさまはご存知か? 精霊には該当する輩が多いからの、使いでがある言葉じゃ」


それはまぎれもなく、前世日本の言葉だ。けれどわたしが教えたわけではない。それはつまり、こういうことだ。


『わたしの他に、日本の前世の記憶を持った存在、あるいは転生者が、この世界にいる』


いきなり判明した事実に、わたしは戸惑った。これまで『魔王の落とし子』であるのはすごく気にしていたけれど、『異世界転生者』であるということはあまり気にしていなかった。けれど、同じ異世界転生者がこの世界にいるとなれば、がぜん気になる。興味がわく。


女神様にも会わなかったし白い部屋も通らなかったから、異世界転生してきたのはわたしひとり、たまたまに違いない思っていた。そんな油断していたところにこの情報だ。


「・・・なんじゃ、あるじさま。急に黙り込んで熱っぽい目をして。あるじさまは中身はめちゃくちゃおっかないが、外身はやたらと美しいからの、変な気分になるのじゃが」


「サフィ」自分の考えごとに脳みそが忙しくて、サフィリアの言うことは聞き流した。「『にーと』って言葉、どこで誰に教えてもらって初めて知ったのか、教えてくれる?」




とても重要な質問への回答は、わりとすぐに得られた。


「『つぶやけ精霊』の書き込みじゃないかの。あのときは盛り上がったわ・・・もう20年は前かのう」


そう言いながら、サフィリアはスマホならぬ『とーみぃ』を指先で操作してみせてくれた。『とーみぃ』は手のひらに収まる大きさの水で出来た円形の鏡、というのが一番見た目に近い。その鏡の表面に光彩のエテルナで浮かび上がる文字ーー魔術文字が映る仕組みだ。鏡の下のほうにある三角や丸を指で押すと、ページがめくれるようにして魔術文字が切り替わっていく。


うん、これ、ネット。完全にインターネットだ。


『つぶやけ精霊』というのも、どうもサイト?の名前らしい。某掲示板のような作りになっており、そのうちのひとつのトピックを選んで手繰っていく。


「お、これじゃこれじゃ」


言って、サフィリアが該当の文章を見せてくれる。そこには『ニート精霊ぐらしさいこう!』と書き込みがあり、その下にすぐ『にーとってなに?』というレスが付いていた。そのレスをきっかけにして100以上のレスがついてる。


一番最初のトピックの書き込み者の名前は・・・


「『ぬこぬこもふもふ』・・・」


なんとも肩のちからが抜けてしまう名前だけど、このセンス。間違いない。前世日本の関係者だ。

わたしは深く息を吐いた。


深い闇の中に一条の光が落ちる。そんな気持ちだ。わたしだけじゃない。この世界にやってきたのは、わたしだけじゃないのだ。そんな安心感が心に満ちる。


「ど、どうしたのじゃ、あるじさま。きゅうに・・・」


「え? ええ、すこしおどろいて」


「おどろいただけか? 涙が出ておる」


言われてそこで頬を伝う熱さに気がついた。頬を指の甲でこすれば、拭いきれないほどの水。


ポケットから手布を取り出して、わたしはそれを自分の目尻にあてる。わたしは正直なところ驚いていたーーこんなに大きく感情を揺らしている自分自身に。遠い、どこくらい離れているかもわからない異邦の地で、同郷の痕跡を知ることの安心感を、懐かしさを。初めて知った。


一方で銀髪の水の精霊は、『これのどこに泣ける要素があるのじゃ・・・?』といつになく真剣な表情をして首をひねっている。


「ねぇ、サフィ」


わたしの呼びかけに、銀髪の少女は困惑の残る表情をこちらに向ける。


「この『ぬこぬこもふもふ』さんに、連絡を取ることはできるかしら?」




サフィリアに聞いたところ、『とーみぃ』を使って、メッセージを『ぬこぬこもふもふ』さんに送れるということだったので、彼女に頼んでメッセージを送ってもらうことにした。


しかし、しばらく経ったあとも、残念ながら、彼(彼女?)からの返信はなかった。



「んむぅ。一方的な連絡じゃから、こちらの連絡を見たかどうかもわからんな。会いに行ければ良いのじゃがな。・・・記憶が少々不確かじゃが、こやつはリンゲンあたりに居ると見たことがあるぞ」


「そうなの?」


リンゲンであれば、この先、直に会うこともあるかも知れない。


いずれ会えるかも知れない、と思えば、優先順位はさがる。わたしはこのことを後回しにすることにした。


あとついでに、サフィリアがわたしの部屋に居る時間に制限をつけることにしたのだった。








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