(七)ボランティア

 武田さんがボランティアとして出掛ける時はほとんど一緒に連れていってもらった。私は活動を通じて自分の中に、今までの閉塞した自己と違って、外の世界へ働きかけられる新しい自己が生まれてきそうな気がした。

 それは自殺のことしかは考えなかった闇の中で、おぼろげながらも淡い希望の光のように思えた。もちろん単純なボランティア活動で、深い絶望の縁から這い上がれるなどとは思ってもみなかった。

 それでも武田さんと活動している間は自殺のことを考える余裕はなかった。人に会う緊張で、また、人と話す困難を乗り越えることで、必死であった。そして、訪問先の方に喜ばれて玄関を出ると、私の心の中にも未だかつてない性質の喜びのようなものが生まれて、こんな世界があったのかと半信半疑ながら感動した。武田さんはよく、

 「結局、人は人の中でしか生きられないよ。人の中に入れば、生きる意味が探せるのじゃないかな」

と明るく言っていた。

 二カ月ほど武田さんと一緒に回って、ボランティア活動の一端を知ることができた。武田さんは、

 「大和田君は、平日の昼間も空いているのだから、今度は僕がいない時にも一人で動いてみてよ」

と言って周辺地域の名簿を渡してくれた。名簿の人々は、以前に武田さんが訪問をしたところだった。この辺りは地方から大阪方面に働きに出てきた人たちが多く住みついた場所だった。その人たちの高齢化も進んできていた。

 私にとっては一人で初めてのところに訪問するなどということは、これまでの育ち方や性格から考えてもあり得ないことだった。それを武田さんはいとも簡単に「やれ」と言う。以前の私であれば、そんなことをするはずはなかったが、武田さんの期待に応えないわけにはいかないという気持ちが強かった。私は、

 「ハイ、やってみます」

と答えていた。

 翌日、平日だったので私は朝から一人で出かけた。初めに一駅、電車を乗った場所から訪問しようと思った。気が張っていたせいか、以前のように電車に乗っている人々の目を恐怖で見ることができないということがなかった。

 私は地図を見ながら勇気を奮い起こして最初の家を探した。それは文化住宅の立ち並ぶ一角にあった。玄関の前に立ったが、なかなかチャイムを押す勇気が出なかった。しばらくためらったが、私はまるで死ぬほどの決意でボタンを押した。

 出てきたのは八十前くらいの男の人で、来意を言うとまるで待っていたかのように家の中へ上げてくれた。戦争の話から息子夫婦や孫の話までさまざまな話をしてくれた。私もいろいろ聞かれたので、一生懸命に答えた。ただ、大学を中退したことは言わずにあくまでも現役の大学生として話をした。

 この家で二時間ほども話をすることができた。帰りがけには、是非また来てほしい、と言われた。私は、この人は話ができることを喜んでいるのだと思った。そして、私もまた話ができることがどれほど自己変革になっているのかを自覚することができた。

 この後、持参した昼の弁当を食べて夕方まで訪問した。何軒行っても慣れるということはなく、緊張の連続だったが、最初の家のチャイムが押せたことで、一つの大きな壁を乗り越えたような気がした。

 下宿に帰ってきた時には、達成感と何とも言えない充実した喜びのようなものがフツフツと心の中にわき上がってきていた。

 私は武田さんが夜学から帰った頃を見計らって彼の部屋に行った。私がノックすると、

 「オーダケーノー、大和田君の方から来てくれたか」

と歓迎してくれた。この日の一日のことを報告すると、我が事のように喜んでくれた。そして、

 「大和田君は早くもすごく変わってきたなぁ。ボランティアというのは実は他人のためのようで、自分のためでもあるんだよ。暗やみの中で、他人のためにと思ってともした灯は、自分の行く手も照らすようなものだよね」

と感心した面持ちになっていた。この後、二人で食堂に行き遅い夕食をとった。食べながらの楽しい会話に、ひょっとすると青春とはこんなものなのかと思った。

 私の生活は一変した。朝起きると弁当を持って周辺の町々に出かけて行った。そして暗くなってから下宿に帰り武田さんと一緒に遅い夕食をとった。電車賃は遠くても三駅程度で安かったこともあり、毎日通っても小遣いがなくなることはなかった。

 これまで昼夜関係のない生活をしていたから、毎朝起きるというのは大変に困難なことに思われたが、訪問して喜んでくれる人のことを思うと苦しいながらも不思議と起きることができた。また、その日のことを夕食時に武田さんに話すことを考えると、どうしても出かけなければならないと思った。

 毎日、朝起きて出かけ、暗くなって帰ってくるという生活は私の体を大変に疲れさせた。それで、夜は妄想に苦しめられながらも早めに眠ってしまった。一晩中眠られないことは何度もあったが、それでも朝になると無理をして出かけたので、その夜は眠ることができた。

 訪問先の方には何度行ってもたいてい歓迎された。私が大学生ということで、孫の勉強を教えてくれ、という人が結構多くいた。それでお孫さんの家に行くとその夫婦とも仲良くなった。

 口コミからか、あちらこちらと教えに来てくれという声がかかってきた。子供が学校から帰ってきて夕食までの間の時間はほぼ毎日、子供たちに教えることになった。教えながら私は、自分の知っていることを子供たちのために役立てることが、何とも言えない喜びを感じさせることを知った。ふと、父も私に勉強を教えながら喜んでいたのではないかと思った。なかには、家庭教師料を払うという人もいたが、

 「お金をもらったらボランティアにはなりませんから要りません」

と明確に断った。断りながら、自分は今までにこれほど明確に自分の意思を相手に言うことができたことはなかったと思い、さらに嬉しくなると同時に自分に少し自信が持てるような気がしてきた。

 私は自分で自分が大きく変わってきているのに驚いた。わずか数カ月の間に、人間はこれほども変われるものなのかと思った。そう思うとさらに私のボランティア活動には熱が入っていった。

 半年が無我夢中のうちに過ぎた。これほど忙しく、充実した緊張感を持ちながら日々を過ごしたのは生まれて初めてのことだった。

 初冬の昼下がり、この日は子供の都合で勉強会がなかったので早めに下宿に帰ろうと思った。よく晴れていた。空を見上げると大阪には珍しく澄んだ青い空に所々に真っ白な雲が浮かんでいた。下宿に近い所にある畑には所々に大根が茎を伸ばして残っていた。

 私は歩きながら不思議な感覚に襲われた。まるで、長年の間の冬眠から覚めたような気持ちだった。また、人間が蛇などのように脱皮できるものだとしたら、脱皮して生まれ変わったような感覚だった。心の中に生命力溢れる朝日が上り、澄み切った天空の空と雲が心の中に取り込まれたような気がした。私は自然と微笑んでいた。

 この新鮮で幸福な感覚は一体どうしたのだろう、何が原因の恩恵なのだろうと考えた。あれこれ考えるが思い当たらなかった。下宿の玄関が近づいた時、ハッと気が付いたことがあった。それは、忙し過ぎて薬を飲むことを忘れていたことだった。

 思い返すと、少なくともこの一週間は全く薬を飲んでいなかった。それ以前も、一人で活動するようになってからは、疲労や緊張や忙しさのため、しばしば薬を飲むのを忘れていた。

 私は、走って下宿の玄関を上がり自分の部屋に入った。そして、残っている薬の量を調べた。間違いなく不自然に大量の薬が残っていた。私はその薬を両手で思いっきり潰してボールのようにし、また玄関へ走った。そして外へ出ると大きなゴミ集積箱の中に有らん限りの力で投げ捨てた。それから、心の中で大空に向かって何度も両手を挙げて万歳をした。

 高一の時より飲み始めた薬だった。三日も飲まなければ錯乱状態になって死ぬか、殺人を犯すか分からない危険な状態になった。薬を止めるということは死を意味していた。生きている為には薬を飲み続けなければならなかった。そんな薬を一週間以上飲まなくても生きることができたのだった。私は、それが信じられなかったが、事実であると受け入れると、言い知れぬ喜びがわき上がってきた。

 私はこの時以来、通院するのを全く止めた。それで薬も一切、飲まなくなった。しかし、これで病気が完全に治った訳ではもちろんなかった。むしろ、精神疾患との本格的な戦いはこの時より始まったとも言える。

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心の病と楽しく生きよう 大和田光也 @minami5

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