(六) 出会い
私は、無意識のうちに下宿の部屋の片付けを始めていた。今までに写していた写真、学校の卒業アルバムなど自分の姿が写っているものはすべて捨てた。また、通知表など自分の名前が書いてあるものも全部捨てた。さらに、高校時代から書いていた日記も、大学ノート十冊以上になっていたが、まとめて捨てた。それ以外にも私の個人が特定できるようなものは薬以外はほとんど捨てた。
次に溜め込んだ本の処分に取り掛かった。下宿の玄関横にある大きなゴミ捨て場の前に、部屋から何度も往復して本を積み重ねて置いていった。終りごろには夕方になっていたが、一人の学生服を着た大学生が下宿に帰ってくるのに出会った。
その学生は食事の時などに時々見かけていた。もちろん私は下宿の誰とも話しをするようなことはなかったので、親しくしている者はいなかった。
その学生は私が本を積み重ねている所へやって来た。そして、
「要らない本なの?好きなのがあったらもらってもいいかい?」
と親しそうに話しかけてきた。私は緊張して、
「どうぞ・・・」
というのが精いっぱいだった。さらに、
「何号室にいるの?」
とも聞いてきたので自分の号室だけをかすれ声で言った。
すべての本を運び出すと、ゴミ置き場の前に大きな本の山ができた。何か苦情を言われはしないかと心配だった。ところが、ごみ収集までの二日間の間に本は全部なくなってしまった。通りがかりの人が次々と持っていったのだった。私は本が好きな人が多くいることを意外に思うと同時に少しうれしくなった。
部屋の中に日常生活の必需品以外がなくなると三畳が広く感じられた。私は畳を箒で掃いた。掃きながら今までに箒を使ったことがあったかと考えたが、思い出せなかった。
私は持ち物を整理している自分とそれを見ているもう一人の自分がいること感じていた。いつの間にか、生きてきた足跡を消そうとしている自分に、もう一人の自分が、
「人は死が迫ると身辺整理をするものだ。いよいよ、本当に死の時が来たね」
と言い聞かせていた。
日曜の昼すぎだった。私の部屋のドアをノックする音がした。私の部屋に誰かが来ることはまれであったので緊張した。恐るおそる開けてみると先日、ごみ箱の前で話しかけてきた学生だった。
「ちょっと部屋の中で話をさせてもらってもいいかい?」
といって入ってきた。下宿して以来二年半ほど経つが、管理人と家族以外の者が私の部屋に入ってきたのはこの学生が初めてであった。学生は、
「食堂などで君を見掛けていたけれど、いつも、苦しそうにしているので、元気を出してやろうと思って来たんだ」
とさわやかに言った。
名前は武田といった。島根県から出てきていた。私と同じ年で、私とは違う大学の三年生だった。昼間は市役所でアルバイトをして夜間の大学に通っていた。私とほぼ同じくらいの小柄な体であったが、若さに満ち溢れていた。顔は小ずくりで目は澄んでいて、迷いのないスッキリとした表情だった。
私の都会人に対する悪印象の人間とは全く別だった。私は他人と目を合わすことができなかったが、この学生に対してはまともに目を見ることができた。その目は、私の異常な精神も肉体も受け入れてくれるような太っ腹な優しさを漂わせていた。私は同年であったが、この学生を武田さんと《さん》づけで敬意を込めて呼ぶことにした。
武田さんは私が言葉を発するの待ってくれた。私は大阪弁などしゃべれるわけがなかったし、愛媛県南伊予地方の方言で話すしかなかった。私が方言を気にしながら小さな声で話していると武田さんは時々、「オーダケーノー!」と大声を出した。それは武田さんの出身地の方言であった。私に、方言など気にせずに大きな声でしゃべればいいんだ、と励ましてくれているのだった。
会話を重ねながら私は小学五年生以来、まともに友達とゆっくりと話をする機会もなかったのを感じた。そして、父との勉強会が始まるまで、友達と遊ぶのが何よりも楽しかった頃の感覚を思い出した。
はるか昔に忘れて、再び体験することはないと思っていた友達と会話をすることの楽しさを味わった。心が新鮮な感動に蘇生するような気持ちになった。それだけに私は、これまでの生きてきた道、そして今の状態や気持ちなど正直に話すことができた。もちろん、そんなことを他人に話したのは初めてだった。
武田さんが部屋に来た一番の理由は、私にボランティア活動を勧めるためだった。武田さんは高校時代から地道にボランティア活動を続け、大学に入ってからも学校やアルバイトの空いた時間には、自分の休んだり遊んだりしたい時間をすべてボランティア活動に注いでいた。武田さんは、
「大和田君は、僕なんかよりも頭もいいし、自己分析も深くできている。だけど苦しんでいる。その原因の一つは、大和田君の話を聞いて分かるのだけれど、視線がすべて自分の内面へ向けられているところにあると思う。一度、自分の視線を他人の方へ向けたら、新しい生きる方向が見えてくるかもしれない。それがボランティア活動だよ」
と確信のある声で言った。その言葉の響きの中に、私を何としても元気にしてやりたいという思いやりが痛いほど感じられた。赤の他人からこのような友情を受けようとは思ってもみなかった。うれしかった。
私にとっては、ボランティアなど、とんでもない話だった。ひたすら、部屋にこもって書物の中に逃げるか、死に場所を求めてさまよう私に他人のために尽くすボランティアは全く無縁のもので、できるはずのないものだった。私の最も避けたい活動だった。自分の基本的な生さえもてあましているのに、他人の助けになるなどとは、考えてもみなかった。
しかし、武田さんの思いを感じた時、ここで断るのは人間のすることではないように思えた。私は、
「何をするのか全く分かりませんが、とにかく付いて行きます」
と答えていた。
次の日曜日、武田さんが誘いに来てくれたので、何も分からないまま付いて行った。ボランティアというと、何か大きな災害でも起きた時に、困っている住民の方を助けてあげる、というようなイメージがあった。
確かにそれは一つの活動であったかもしれないが、日常的には地味なさまざまな活動が多くあった。その中で特に武田さんが大阪に来てから取り組んでいたのは、高齢者への訪問激励だった。
田舎のように、何世代もの家族が一緒に生活したり、近くに住んでいるのと違って、都会では核家族化して高齢者夫婦だけ、あるいは高齢者の単独世帯という人が増えてきていた。そういう家を回って、会話を交わしている中で元気付けてあげたり、できることがあればしてあげようというものだった。
武田さんは大阪に来て以来、学校の講義がある時には日曜祝日の日を中心に回り、大学が休みの時には平日の夜にも家庭訪問していた。
地域は、地元周辺はもちろん、高齢者の多いところには関西一円どこにでも行っていた。その数はすでに数百件にも上っていた。一度きりしか行かないというのはほとんどなく、何回でも同じ家に足を運んでいた。
私には他人の家に訪問して話をするなどということができる訳がなかった。それで、ただ武田さんの後について訪問するだけだった。しかしそれが、私には大変な勇気を心の底から引き出さなければできないことだった。それに比べて武田さんは慣れたもので、まるで親戚の家にでも行くようだった。
訪問するとほとんどの方が非常に喜んでくれるのには驚いた。私もうれしくなった。武田さんも私も学生服を着ていたので、初めての家に行っても
「大学生のボランティアですが、高齢者の方の話を聞かせていただきたくて来ました」
というとほとんどの方が機嫌よく家の中に上げてくれて、長時間さまざまな話をしてくれた。もちろん、ボランティアという言葉はまだ一般的ではなく別の表現でいろいろと説明はしなければならなかった。
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