(五) 彷徨
病気がよくなる気配はまったくなかった。薬は五年間ほとんど一日も欠かさず飲んでいた。通院は会社に勤めた時、一人で行ったことをきっかけにその後も一人で行くようにした。
医師に、「調子が悪い」と訴えると薬を変えてくれたが、それを飲むといつものことだったが、やたらと眠くなり、目が覚めていても夢の中にいるような状態になるだけだった。病気が根本的に治ってくるような感覚とは程遠いものだった。
何年か前から、私は右の手のひらをしばしば左の乳の下に当てて心臓の動悸を確認するような癖がついていた。体調の悪い時は、心臓が大きく早く拍動しているのが手のひらによく伝わってきた。この動悸が少しずつ頻繁になり、激しくなってきた。私は心臓の動きが気になり何かあるとすぐに左胸に手を当てるようになった。そのため、着ている物の左胸の辺りが手垢で汚れが目立つようにさえなっていた。
ある時、私は薬が憎くてたまらなくなった。これだけ薬を飲んでいるのに良くなるどころかますます悪くなる。薬が私の身も心もボロボロにしているに違いない。薬を飲んでいるから病気が治らないのだと思えてきた。それで薬を止めようと決意した。
一日、飲まなかった。すると二十四時間たっても眠られなかった。頭はいつも何かを激しく考え続けていた。さらに二日、飲まなかった。頭を何かで縛られるような鈍痛がして、吐き気も出てきた。指先がブルブルと震え、何かを持つにもうまくいかなくなった。体は熱っぽくなり、脈拍は常に百に近くなった。じっと座っているだけでも不安にさいなまれた。
それでも三日目も飲むのをやめた。精神が錯乱状態になり、自分で自分が分からなくなった。自分ではないのだから何をしてもいいような気もした。殺人でもできると思った。何をするか分からない自分が怖くなった。
また、鏡を見ると、それでなくても飛び出しぎみであった眼球が、だらしなくだらりとたれ下がってきているような気がした。このまま飲まなければ大変なことになると恐ろしくなった。私は急いで薬を飲んだ。
私は、相変わらず、目が覚めると下宿を出るという生活を続けていた。眠っている時はいいが、起きてから部屋に居ると不安で居たたまれなくなった。そして出掛ける時はいつも、
「ひょっとしたら今日で帰らなくなるかもしれない」
と思った。私は、いつでもどこででも死ねると思った。
下宿の最寄り駅は、各駅停車しか止まらなかった。駅のホームで待っていると、急行や特急が目の前を風圧を伴って疾走した。そのたびに今すぐにでも飛び込めると思った。そう思う私にもうひとりの私が尋ねた。
「本当に飛び込めるのか?ただ観念的にそんな気がしているだけで、実際にはそれほど気軽に死ねないのではないのか」
と耳元でささやいた。私は次の通過列車が近づいた時にホームの先端の方にまで歩いた。電車は驚くような大きな警報音を鳴らしてホームに入ってきた。ホームの駅員が激しく笛を吹く音も聞こえた。風圧で私は後ろにのけ反るように下がった。私は、
「あと二十センチほど前に行きさえすれば、今頃はもうこの世にない。私はいつでも本当に死ねるんだ。ただ、同じ死ぬなら気に入った所で死にたいと思っているだけだ。生きているより死ぬ方が楽なんだから」
ともうひとりの自分に言った。駅員は少し青ざめたような顔で私を見つめていた。
私は下宿代以外の生活費をほとんど電車賃に使った。関西一円、至る所に行った。駅からは歩いたが、普通の人と同じ速度で歩くと、動悸がして呼吸が苦しくなり気分が悪くなるので、ゆっくりと歩いた。それでも息苦しくなると、所かまわず座り込んで休んだ。
和歌山県に行った時、海に近い駅で降りて絶壁を探して歩いた。そして息を切らせながら、ほとんど這う程度の速さで絶壁の先端まで登った。眼下にははるか下方に白い波が打ち寄せるのが見えた。
軽くまたぐようにして踏み出せば、確実に死ねる高さだった。私はその海を見ながら、あの幼いころの幸せだった故郷、城辺町の海を連想した。今飛び降りれば、幸せだった命に同化できるように思えた。
私は何時間も崖っ縁のところにたたずんでいた。永遠にこの場に居たいと思った。空と海の様相は、色彩豊かに変化して飽きることはなかった。周囲が薄暗くなってから私は立ち上がり駅の方へ歩いて行った。
滋賀県の山深い駅で降りたこともあった。私は駅から見えた岩場の方へゆっくりと歩いた。遠くから見るとそれほど高いとは思えなかったが、近づくと大きな岩が積み重なったかなりスケールの大きなものだった。人は行き来する場所だと見えて急な山道が岩場の上へと続いていた。
私はその道を登り始めた。すぐに息苦しくなり気分が悪くなった。しかしそれでも登り続けた。呼吸困難になり、心臓が止まってしまって死んでもいいと思った。むしろ、そうなりたくて開き直ったような気持ちになって力を振り絞った。
ほとんど倒れそうになりながら岩場の上までたどり着いた。山々がよく見えた。山あいを流れる川も見えた。それはすべて故郷の山と川の感覚をよみがえらせた。私は大きな岩の先端で倒れるように仰向きに寝転がった。先の方へ一回寝返りをうつとはるか下の岩場に落ちる間隔だった。私は気を失ったのか眠ったのか分からない状態で意識が無くなった。
どれほど時間が経ったか分からなかったが、ゆっくりと意識が戻った。まず何より生きていることに気がついた。寝転がった時と同じ位置に仰向けになっていた。力の入らない体で上半身を起こした。辺りは夕暮れの空気になっていた。下の方で山仕事をしていた人が遠目に私を注視しているのが分かった。どうやら心配をしていてくれたようだった。私は足をガクガクさせながら岩場を降りた。
また、暑いさなか京都の川べりの道を歩いたこともあった。道は舗装されていず、靴をパタパタとさせながら歩くと土埃が上がった。しばらく歩くと、頭が焼けつくように熱くなりクラクラとしてきた。
道の先へ目をやると、猛暑のため陽炎が上がっていた。画像の倍率が不規則に変化し、ゆらゆらと揺らぐのを珍しく見ていた。それは、暑さのために視神経が異常になったのか、陽炎のためなのか区別がつかなかった。揺らぐ映像の先を目を凝らすようにして見ると、先に歩く若い母親とその後を必死で追い掛けている幼い少年の姿が見えた。
私は何度も目をしばたたかせながら二人の後ろ姿を見た。
信じられないことだったが、その母子は、幼い私とまだ病気が発病する前の元気な母だった。私は感動で暑さなど忘れてしまい、心が幸福感でいっぱいになった。当時、城辺町の道は舗装などされていなかった。
夏のカンカン照りの時などバスが通ると、土埃が舞い上がり前が見えなくなった。私は目や口に埃が入らないように両手で顔を押さえて土埃がおさまるのを待った。
もういいだろうと思って目を開けると、そばにいたはずの母が、まだ漂っている薄い土煙の中を、スタスタとずいぶん先まで歩いていた。私は驚いて必死になって後を追い掛けた。近くまで追いつくと母は急に振り返り、両手を差し伸べて面白そうに笑った。母の遊びだった。
揺らぐ映像の中で、やはり母が後ろを振り返り両手を差し伸べた。そして幼い私を見るのではなく、今の私をまっすぐに見た。それから、
「コーちゃんはどうしてそんなに死に急ぐの?」
と笑わずに言った。私は驚いて、何と答えようかと考えた時、母の顔が見えなくなった。
道の先をよく見ると、幼い男の子が母親と手をつなぎ、その手を大きく振りながら歩いている後ろ姿が見えた。それは私でも母でもなかった。
母の映像は消えたが、質問された言葉はいつまでも私の頭に残った。私は母に、自殺の理由をどのように説明しようかと考えていると、自殺には別の理由もあるのに気がついた。
それは《当て付け》だった。これまで私はまじめに生きてきた。父の言われる通り勉強もした。それは親孝行でもあった。発病してからも決して私は、自分から怠けようとしたのでもなければ、要領よく生きようとしたわけでもなかった。まして自分がよい思いをするために、他人に嫌な思いをさせたり、犠牲にさせるようなことは一切していなかった。むしろ、他人を傷つけることを何よりも恐れていた。
私がこれまで積み重ねてきたと考えている罪は、現実的社会的な罪ではなく、精神的観念的な罪であった。
私は何も悪いことはしていなかった。ただコツコツと真面目に生きてきただけだった。それなのにどうしてこれだけ苦しまなければならないのか。私よりはるかにいいかげんな人間で、他人にも迷惑をかけるような者が、楽しい人生を歩んでいるのはどういう訳なのか。私は納得できなかった。
こんな理不尽な人生を強要している犯人は、いったい誰なのか。それは運命とか宿命とかいうものだろうと思った。私はいつの頃からか、目に見えない犯人に対して当て付けの腹いせに死んでやろうと思うようになっていた。自殺をして恨みを晴らしてやろうと思っていたのだ。
このように、母への答えを考える中で、自殺願望の理由には案外、単純な動機も含まれているのだ、と分かった。これなら母も納得してくれるような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます