【番外編】 空に、星が灯るまで
彼がこの城にやってきて、どれくらいの月日が流れただろう。
蜂蜜色に輝いていたその髪は今はすっかり白くなり、深く刻まれた額の皺をふわり優しく覆っている。ヒヨッコ神官と呼ばれたあの日は遠く、彼の痩せた体を包んでいるのは高位の司祭の神官服だ。彼は天蓋を引き上げベッドに腰掛けると、その重厚な衣を脱ぐことも出来ずに、ゆるゆると横たわった。
凍てついた夜も、灼熱の夏も。
竜の心臓を得て以来、怪我一つ、病気一つしなかった彼が、胸の痛みを感じるようになって半年になる。迫り来る最期の時を、老いた体は彼自身以上に感じていた。司祭はふっと目を閉じて、過ぎた日々を瞼の内に描いた。兄のように優しかった隣国の王子。見るたびに若返る怜悧な魔女。目に入れても痛くない愛娘。父王、母上。今は亡き、てのひらの上の小さな親友。巣立った彼の子供達。
と、高い靴音に司祭はゆっくり瞼を上げた。ドアを開けて現れたのは、長身の痩せた魔法使いだった。彼は、出会った頃とちっとも変わらない。ただ――その背から、黒い翼を覗かせている。もう、人の姿を取るだけの力が無いのだ。
魔法使いは司祭の枕元まで歩み寄ると、その翼を大きく広げ角を現し、太い尾を伸ばした。すっかり竜の姿に戻ると彼は、司祭のベッドに頭を預けて体を横たえた。司祭はそおっと腕を伸ばし、ひんやりとしたすべすべの鱗を撫ぜながら、愛しげにその目を細めた。
「オドラデク、お別れの時かも知れない。もう僕には、起き上がる力も無い。全ての音が、遠くに聞こえるんだ」
ところが竜はさも当然と言ったように、しわがれ声でこう答えた。
「存じておるぞ、マヌケ司祭。我輩の心臓は貴様と共にある。貴様が絶える時、それは我輩が絶える時だ」
その言葉に、司祭は目を見開いた。竜の鼻を撫ぜていた骨ばった手がこわばる。
「駄目だ! お前は竜、何百年と生ける存在じゃないか! 心臓なら返す、だからお前は」
「だから貴様はボンクラだと言うのだ、ロイス。何十年と連れ添っておきながら、まだ貴様は竜の特性を把握しておらんと見える」
このように人間に謎々をふっかけるのもまた竜の特性であるが、とりあえずそれには言及せず、司祭は答えを口に出してみた。
「空を飛ぶ?」
「それだけか」
「炎を吐く?」
「見たまましかその存在を捉えられないのか、アサハカ司祭」
司祭は少し考えて、新たな答えを口にした。
「宝を集める?」
「ようやく思い出したか。我輩は手放す気など毛頭ないぞ」
突き放すようなその口調とは裏腹に、額に降りた口付けは優しくて、司祭は言葉失くして竜を見上げた。涙がこぼれるその前にもう一度口付けられ、司祭はやはり言葉を飲んだ。痩せた腕を伸ばし、その大きな頭を抱え込めば、竜は喉の奥をグルルと鳴らした。巨大な翼が、司祭を包むようにゆったりと伏せられる。
どんな言葉でも言い足りない、たった一人の相手への想い。息が止まるほど切なく、体を包むほどあたたかく、涙も笑顔も震えるほどに、繰り返すのはただひとつ。
どうすれば伝わるだろう、どうすれば応えられるだろう。真紅の花びらは今尚鮮やかに胸にあふれてやまないと言うのに!
「ああ、僕はどうして魔術を学ぼうとしなかったのだろう。僕が魔法使いだったなら、僕の心臓をお前にあげるのに」
「目を閉じろ、ウスノロ司祭。そんなものが無くとも貴様にはとうに見えているはずだ、その香りを感じるはずだ。知っておろう、貴様にどんな魔法がかけられているか!」
司祭はくすりと笑うと、言われるまま、ゆっくり瞼を閉じた。その胸に抱かれた竜もまた、静かに上下の瞼を合わせた。風の足音も無い城の石壁に、ただグルグルと、竜が喉を鳴らす音だけが沁みた。
孤独な竜と、ちいさな王子。
それは、まだこの古城が生い茂るいばらに包まれる以前。
「紅の城」と呼ばれる前の物語。
王子といばらの魔法 高将にぐん @2gun
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