【番外編】 『僕の君』へ

 ロイスの神官職も板につき、参拝者も増え、蜘蛛の子一人では手が足りずに新たに梟の執事を迎え――だからといって手狭になったわけではないが、空き部屋をもう一つ確保しようと、神官は久方ぶりに、自ら掃除用具を手にとった。


「なんだか懐かしいですねぇ、神官様」

「え?」


 窓から差し込む白い光に、ちかちか埃が舞い踊る。がらくたとも思える骨董品の山の中で、神官は口元を覆っていた布を引き下げると、四本の腕で古びた鏡を磨くサラの顔を見た。


「神官様、最初この城に来たとき、毎日掃除ばかりしてたでしょ。よっぽど綺麗好きなんですね」

「あれは……」


 掃除ついでに、脱出できそうな場所を探っていた。


 などと言えるわけもなく、神官は曖昧に苦笑した。手にした重厚な額縁を、誤魔化しがてら一心に磨く。収められた絵画は厚い埃に覆われて、おぼろな輪郭しかわからない。神官は表面を傷つけないよう、そおっと埃を払い落とした。痩せた男性の肖像が、徐々にあらわになっていく。


「え……これ、」

「あー! なっつかしいですねー!」


 魔法使いだった。


 つんと尖ったあごひげこそ生やしていないものの、こけた頬も高い鼻もそのままに、けれど眼は今よりも凛々しく鋭く、額にも一本の皺もない。百年だろうか、二百年だろうか、若き日の魔法使いは、気品と自身に満ち溢れていた。


「そうか……オドラデクか」

「まだ、お嬢様も生まれてない頃の肖像ですよ。百二十年位前? うははは、なんか笑っちゃう」


 可笑しそうに腹を抱えるサラの隣でけれど神官は、寂しげに目を伏せた。


 わかっていたはずだ、覚悟していたはずだ。けれど竜と人との生の長さはあまりに大きく、遠く、手の届かないものに思われた。自分の知らない伴侶の姿。思い出。生き様。過ごしてきた日々。時々、そう、ほんの時々ではあったが、神官はこんな時、置いていかれたような気がして、なんとも心細くなるのだった。


 愛しげに、神官が絵の中の若き魔法使いを指先で撫ぜる。その儚げな微笑に気付いたサラが、きょとんとして神官の顔を見上げる。


「神官様?」

「ん? ああ……。僕も、この頃のオドラデクに会いたかったなぁ、と思って」

「会えますよ」


 即答されて、神官は目を丸くした。弾かれるようにサラに向き直る。


「会えますよ。ほら、これです」


 よいしょ、とサラが持ち上げたのは、なにやら文字が刻まれた銀の指輪だった。サラの手からそれを受け取ると神官は、きょとんとしながらそれを自らの中指にはめた。


「それを装着した手で、入り込みたい絵画の表面に触れていただけますか? そう、そんな感じに。そうす


 最後まで聞こえなかった。

 気付けば神官は、静まり返る城の中に立っていた。


「……え……」


 見慣れた古城だ。見慣れた我が家だ。けれど、何か違和感がある。


 広い廊下も大きな窓も、窓の外の杉の木も、全てが自分の知っているものだ。けれど廊下に敷かれた赤い絨毯は色鮮やかにふわふわしており、窓ガラスはひとつもひび割れておらず、杉の木はまだ自分の背丈ほどしかない。神官ははっとして周囲を見渡した。


「まさか……!」

「貴様、何者だ」


 突然背後から掛けられた声に、神官はびくりとして振り返った。

 午後の日差しを受けながら、長身の痩せた男がつかとこちらに歩いてくる。その姿に、聞き覚えのあるその声に、神官の心臓がどきりと震えた。身じろぎ一つできずに神官は、牽きつけられる様に彼の姿を見つめていた。


 外見だけでは竜の年齢など判断できないが、見たところは神官より四、五歳歳が上に思える。いつも羽織っているぼろぼろのローブはどこへやら、ぴしりとした黒い礼服を着こなしている。

 痩せこけた頬、つんと高い尖った鼻、ひげは生やしておらず、すっと尖ったあごが高飛車に上を向いている。広い額、その下には鋭い金色の眼。神官の知っている魔法使いはくしゃくしゃの灰色の髪をしていたが、目の前の青年は輝く銀髪を丁寧に整えている。ああ、メルセデスと同じ色だ、と神官は胸の中で納得した。とくん、とくん、胸が震えて、頬が勝手に上気する。


 若き魔法使いは鋭く目を眇めると、忌々しげに吐き捨てた。


「神官? 何故、私の城に神職者風情が入り込んでいるのだ」


 声も神官の知るもののようにしわがれた声ではなく、凛と張りのある声だった。思わずうっとりとそれに聞き惚れていると、長い爪を持つ大きな右手が、がしりと神官の首を掴んだ。


「答えろ。貴様、何をしにここに来た」

「ケホッ……君に……会いに、来たんだ、オドラデク」


 絶え絶えにそう告げると魔法使いは、凛々しい眉をひそめてすっと神官から手を離した。


「貴様、何故その名を……」


 けほけほ咳き込みつつも神官は、魔法使いの顔を見上げ、にこり、無邪気にはにかんだ。




 つかつかと長い脚で魔法使いがまっすぐ廊下を進んでいく。その後ろをついて歩きながら神官は、歩き方までそのままなんだな、などとぼんやり考えていた。途中、召使い達に出会うと彼らはぴたりと歩みを止め、魔法使いが行き過ぎるまでじっと佇み頭を垂れた。皆、人の姿をとってはいるが、尻尾や羽根が見え隠れしている。


「随分沢山の従僕がいるんだね」

「それほどでもない」


 それはあながち謙遜ではないと、王城育ちの神官は思った。


「でも、こんなにいるとは思わなかった。僕が知っているのはサラだけだから」


 その言葉に、魔法使いは振り向きもせず、けれど僅かに考え込んだ。


「サラ……? ああ、あの蜘蛛の子か。ならば、奴に給仕をさせよう」


 応接間に入ると魔法使いは傍にいた梟の頭の男に目配せをし、それだけで梟は承知して頭を下げ、奥に下がった。テーブルについて二人きりになると神官は、沈黙と静寂に耐え切れずうつむいた。いたたまれないのではない。自らの心臓の音がうるさくて、火照る顔が熱くて、魔法使いの顔を見ることなどできないのだ。


 百合模様の壁紙も、丸みを帯びた高い窓も。長いテーブルも樫の木の細工椅子も。全て見慣れたものなのに、全て神官の知らない顔をしている。


 魔法使いはゆったりとテーブルに肘をつき、すらりと長い指を組むと、眼光鋭く神官を睨みつけた。誰もが竦みあがりそうな眼差しに、けれど神官は照れくさそうに微笑んだ。調子を狂わされて魔法使いはふうっと吐き捨てるようにため息をつくと、半眼になって視線を逸らした。


「全く、一体何なのだ貴様は。何故、私の『最初の名前』を知っている?」


 『私』。いつもと違う、折り目正しい一人称に心奪われ呆けていると、魔法使いに鋭くねめつけられ、神官は慌てて背筋を伸ばした。


「あ、えっと、僕は、この城の礼拝堂に勤める神官なんだ。……今でない、遠い先の話なんだけれど」


 要領を得ない説明に、魔法使いは目を細めた。


「この城に神官など置いていないし、今後も置くつもりはない。そもそも貴様は、何故王都や村ではなくこの城に務めるというのだ?」

「それは!」


 立ち上がりかけた神官の若草色の瞳が、魔法使いの金色の眼と視線を合わせた。神官の口から、思わず本当の事がこぼれる。


「……君を、愛しているから」

「しつれいいたします!」


 舌ったらずな高い声にはっとして、神官は赤面して深く座りなおした。ドアが開き、茶器を乗せた銀のワゴンが、梟によって運ばれてきた。そして、カップの横によちよちと歩き回る小さな影を見て、神官は思わず歓喜の声を上げた。


「うわぁ……!」


 サラだ。

 蜘蛛の糸の様な細い銀髪も、サファイアのような青い瞳もそのままだが、その姿は神官が知るものより更にふた回り小さい。頬は丸く薔薇色で、手のひらはちっちゃなもみじのよう、目はこぼれそうに真ん丸く大きい。まだ幼い彼は時折「よいしょ」「よいしょ」と声を出しながら、一所懸命にお茶の準備にとりかかっていた。


「あ」


 サラが肩に担いだティースプーンを後ろに落としそうになり、神官は思わず手を差し伸べてそれを支えた。彼は一瞬何が起こったのか分からない様だったが、にこにこと見下ろす神官に気付き、ぺこり、深々と頭を下げた。


「ありやとーございましゅ」

「……っ!」


 きゅううっと胸が締め付けられるように苦しくなり、神官はたまらず目を伏せ片手で口元を覆った。

 と、頭部だけ梟の老紳士が魔法使いの傍らに立ち、恭しく彼に尋ねた。


「坊ちゃま、ご夕食の件ですが、」

「坊っ……!」


 思わず紅茶を吹き出しかけた神官を、魔法使いと梟がぱちくりと見つめる。


「『旦那様』じゃなくて『坊ちゃま』なのか!? オドラデク!」


 その言葉に魔法使いの白い頬がみるみる赤くなる。梟が僅かに肩を揺らす。魔法使いは牙をむき出すと、老梟に向かって当り散らした。


「貴様、私はもう子供ではないのだぞ! この城の当主だ! それ相応の呼び方をしろ!」

「は。坊っ……ご主人様」


 魔法使いが不機嫌もあらわに腕組みをしても、神官は遠慮なくくすくすと笑みをこぼしていた。


「で、何の用だ?」

「は。今晩のご夕食でございますが、何になさいましょう? お客さまの苦手なものなどはございますでしょうか?」


 梟の問いに対し、魔法使いと神官、二人同時に口を開いた。


「誰がこ奴を夕食に招くと……!」

「え!? オドラデクは夕食を作らないのか!?」


 神官の言葉に、魔法使いが牙を剥いて顔をしかめる。


「何故、私が料理などしなくてはならないのだ」

「あ、そっか。オドラデクはまだ料理ができないんだ」


 魔法使いの眉がぴくぴくと引きつる。銀髪が僅かに盛り上がっているところを見ると、どうやら角が伸び始めているようだ。


「この私に出来ない事などない!」

「でも、料理はしないんだろう?」

「した事がないだけだ、出来ないわけではない! 見ていろ、お前に文句のつけ様がない夕食をだしてくれる!」


 言うなり派手な音を立てて立ち上がった魔法使いの、ずかずかと応接間を後にするその後ろ姿を、梟もサラもただおろおろと見送っていたが、神官だけはくすくすとさも楽しそうに笑いながら、足取り軽く魔法使いの後を追いかけた。




「オドラデク、トマトは包丁で剥くんじゃないよ」

「うるさい、私に指図するな!」

「あっ、危ない! ああ、もう、こんなに深く指を切って……」

「なっ、何を舐めている! 無礼者!」


 調理場からは絶えず怒鳴り声が聞こえていたが、使い魔たちはドアの外から遠巻きに、それを見守ることしか出来なかった。主人の怒りに触れれば、たちまち元の動物に姿を戻されるか、下手をすれば命はない。それは人間とて同じ事だ。それなのに。


「なぁ、あのお客人、何者なんだ……?」


 誰ともなく洩れた質問に、使い魔たちはそろって首を横に振った。調理場からは相変わらず魔法使いの怒声と、嬉しげな神官の朗笑が聞こえて来ていた。


 日もすっかり暮れた頃、彼らはようやくテーブルについた。目の前に並ぶは魔法使いの初の手料理。鹿のローストにじゃがいものポタージュ、野菜のゼリー寄せにとっておきのワイン。神官は鹿肉を一口含むと、固唾を呑んで見守る魔法使いににっこりと笑みを返した。


「うん、美味しい。やっぱりオドラデクは何をやらせてもそつがないな」


 その言葉に、魔法使いはぱあっと満面の笑みを浮かべた。そうして高い鼻をつんと天井に向け、にんまりとして何度も頷いた。


「そうだろう、そうだろうとも。この私に、不可能などないのだ」

「うん、まぁ、ちょっと盛り付けとか見栄えは悪いけど」

「っ! 貴様!」


 けれど魔法使いが牙を剥いても神官はにこにこと笑うだけで、毒気を抜かれた魔法使いは肩を落としてワインを口に含んだ。


「全く。この私にそんな口を利くのは貴様だけだ」


 透ける様に白い魔法使いの頬が、ほんのり僅かに赤く染まった。それに目ざとく気付いた神官もまた、その頬を花の色に染めた。


 まだ、自分が出会う前の彼。ここに留まれば、若い頃の彼と同じ時を歩むことが出来る。竜である彼と同じだけは生きられないが、きっと壮年になるまで共に過ごす事は出来るだろう。共に暮らし、共に歩み、共に歳をとり。素晴らしい案に神官は気分が高揚したが、それと同時にちくり、胸に痛みを感じた。


 とくん。とくくん。とくん。とくくん。


 神官の左胸では、ふたつの心臓が重なり合って響いている。


「そういえばまだ、名を聞いていなかったな」


 突然魔法使いに声を掛けられ、神官ははたとして顔を上げた。


「ロイス。もっとも、君は名前でなく僕を――」

「ロイス」


 どきん、と胸が高く弾んで、ナイフを握る神官の手がぴたりと止まった。


「ロイス、ロイス――か。ふむ、悪くない響きだ」


 低く、腰に響くような甘い声で何度もその名を囁かれ、神官の全身が急に熱くなった。


「ロイス」


 こくり、喉で呼吸が止まる。魔法使いはすっと席を立つと、ゆっくりとテーブルを回り、神官の元へとやってきた。長くしなやかな彼の指が、神官の長い金髪を梳く。尖った爪の先が神官の細い首筋をくすぐり、神官はびくりと肩を震わせた。


「ロイス」


 心地良い響き。甘い声。だけど。


『ウスノロ神官』


 頬を指が滑り、薄い唇が近づいてきたが、神官は彼の胸を両手で押し返した。


「ロイス?」

「僕の、知ってるオドラデクは、」


 広い胸板を手で押しやり俯いたまま、神官は胸に浮かんだ言葉を繋げた。


「僕のオドラデクは、僕の事を名前で呼ばないんだ。ウスノロとかマヌケとかドンクサとか、いつだって人を馬鹿にして、声ももっとしわがれていて。顔だって皺が深くて、額ももっと後退していて、髪は灰色でくしゃくしゃで。いつもぼろぼろのローブを着ていて、意地が悪くて居丈高で、でも、」

「ロイス」

「愛してるんだ」


 顔を上げた神官の若草の色の瞳に、魔法使いの顔が映った。若々しく、凛々しい竜の青年。けれど。


「……帰らなくちゃ。『僕の君』の元へ」


 微笑む神官の体を、銀色の小さな星が包みだす。魔法使いはそっと神官の肩から手を離した。


「ではロイス、『私のお前』にはいつ会えるのだ?」

「百二十年――サラが、百二十年と言っていた」


 銀の星粒がくるくると螺旋を描いて踊りだす。神官の体が空気に溶けていく。


「百二十年だと!? そのような長きを……この、ハクジョウ神官! ヒキョウ神官!」


 魔法使いが悲痛な声を上げる。けれどこの声も、神官の耳には微かにしか届かなかった。すうっと空に吸い込まれるように神官の透き通った体は宙に浮かび、その周りをくるくると回る銀の星屑もその螺旋の幅を狭めていった。

 やがて神官の姿がすっかり見えなくなり、星粒もはらはらとこぼれて消えると、魔法使いはただ一人、食堂の真ん中に立ち尽くした。


ると、その絵の中に行けるって訳なんです」


 はたとして神官が目を瞬かせる。午後の日差し、舞い踊る埃、薄暗い部屋に山積みの古い家具。ぱちぱちと瞬きをして、膝元を見てみれば、今まさに魔法の指輪の説明を終えたサラが、神官の顔を見上げていた。


「……サラ……」

「神官様?」


 夢だったのだろうか? いや、それにしては、あまりに――あまりにその肖像画は、神官の胸に温かく映った。神官はそっと肖像画の頬を撫ぜると、ふわり、少し寂しげな笑みを浮かべた。


 と、バン! と大きな音を立て、扉が大きく放たれた。


「何をしておるサラ、もう午後のお茶の時間はとうに過ぎておるぞ! 我輩はとうにおなかがぺこぺこなのだ」


 苛々と長い爪をかち合わせる魔法使いに、サラは慌てて立ち上がると糸を伝ってひょいひょいと廊下に飛び出した。


「はいはい、ただ今ー!」


 サラが姿を消すと魔法使いは、ふん、と鼻息一つつき、高慢に仰々しく腕組みをした。そうして床に座り込む神官の姿に初めて気が付いたかのように片眉を上げると、忌々しげに吐き捨てた。


「ようやく帰って来おったか、ハクジョウ神官」


 これでいいのだ。


 迷うことも、苛立つことも、とどかぬ指に悲しむことも。それはひとつの権利なのだ。一緒にいる。共に歩む。何よりも贅沢な約束を、今尚胸に焼き付けて。


 神官は魔法使いに駆け寄ると、彼に口付けようとその腕を伸ばしたが、それより早く魔法使いの腕が、神官を強く、強く抱きしめた。

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