火はいずれ燃え尽きる

「とーもーかっ!」


 飛び乗ったら、「ぐえっ」とも「ぶえっ」ともつかない声とともに、寝息とそれに合わせて上下していた掛け布団の動きが止まった。

「……もうちょっと穏やかに起こしてはくれんか……」

「あはっ、ごめん。でもいよいよ楽しみにしてた日なんだよ? ちょっとくらい許してって!」

 にやりとして見せたら、変わらず少し不機嫌で眠そうながらも、燈火ともかは微笑んだ。

「……そうだな」

「じゃあ、早速準備だー!」


 そう言って立ち上がりかけて、ふと大事なことを思い出した。

「ね、チュー」

「え」

 ほんの一瞬だけ、ほんの僅かに燈火の顔が曇って、けれど即座に何事もなかったように元の表情に戻ったのを、あたしは見逃さなかった。けれど、気付かなかったふりをして目を閉じる。

「ね、ほら、朝一番の」

 不安を悟られないよう、いつものようにねだって顔を近づける。


「……」

 ほんの少しの間があってから、右のほっぺに温かいものが触れた。

 やっぱり、唇じゃないんだ。

 そう思ったものの、でもしてくれたんだからいいやと考え直し、目を開けて今度こそはと立ち上がりかけて…… またしても大事なことを思い出した。

「まだおはよう言ってなかったよね! おはよっ、燈火!」

「ああ、おはよう」

「ちょっと! 名前呼んでよ!」

「はいはい…… 彩氷あやひ

 今、あたしの名前を呼ぶ前に少し間があった。

 ……いや、いいんだ。呼んでくれたんだもの。

 燈火から目を逸らし、あたしは本当に立ち上がった。




 燈火とあたし、彩氷は幼稚園の時からの同い年の幼馴染。高校の時からは、お互いにもはや「親友」ってレベルの気持ちを超えていることに思い至り、色々ありつつも正式にお付き合いをすることになった恋人。ずっと一緒に過ごしてきたから、好みも癖も、全てを把握していると言っても過言ではない。


 そして数ヶ月前からは就職のために上京した燈火との同棲が始まった。あたしは家で家事をして燈火を支え、休日には一緒にグダグダしたりお出かけしたりする日々を送っている。


 幸せかと訊かれたら、幸せだと答える。

 燈火は頼もしくて優しいし、趣味もすごく合う。さっき、あたしが燈火を支えてるみたいなこと言っちゃったけど、実際は特に精神面で支えられてるのはあたしの方だと思う。

 



「お待たせー! 行こう!」

 着替えて、2人分の遊園地のチケットをしっかりバッグに入れ、玄関で何やら熱心にスマホを睨んでいた燈火の肩を叩いた。

 燈火はえっ、あっ、みたいな慌てた声を出して、ほとんど落とすようにスマホを手持ちのバッグに放り込んだ。

「す、すまん、気付かなくて」

「いいよいいよ、さあ、出発だー!」

「待て」

 ノリノリでドアを開けようとしたのに、ワンピースの袖を引っ張られた。

「なあに?」

「被っていけ」

 わざわざ背伸びをしてまで、ぎゅっ、とあたしの頭に白いつば広ハットを深々被せる燈火。

「えー? 今日は日差しそんなに強くないからいいと思うんだけど」

「いいから。似合ってるから」

 強引な言い方と、本心からではない褒め言葉。

 ぴきり、と、頭の後ろが痛んだ気がした。無理やり帽子を被せられたせいだろうか。

「……分かったよ」

 釈然としないながらも、帽子くらいはいいかと気にしないことにした。


「……ごめんな」

 ……なんで。なんで急にそんな消え入りそうな声で……

「何がー? さ、レッツゴー!」

 燈火の弱々しい謝罪も、先程燈火が食い入るように見ていたサイトのことも気にしていない風を装って、ドアを開けた。秋の涼しい空気が流れ込んできた。




 幸せだ。そう答えるのは確かだ。

 でもこの頃…… 時々、日々の生活の中に混ざる小さな違和感がある。

 例えば、あたしには将来就きたい職業があって、学部こそ違ったけれど燈火と同じ大学に通っていた。けれど、何故か就活をせず燈火についてこの家まで引っ越してきた。

 あの職業に就きたいと望んで、たくさん勉強をしたはずなのに。いや、もちろん燈火のことは愛している。けれど、あたしがそんなに簡単に夢を捨てるだろうか。


 他にもある。先々週くらいにふと自分のスマホの連絡先やメッセージアプリを確認してみたら、なんとどちらにも燈火の連絡先しかなかった。

 大学の友人達やら趣味で知り合った人達やら、たくさん登録していたはずなのに。スマホが故障したわけでもないはずなのに。ああでも、2年ほど使っているはずのこのスマホ、何故だか妙に新品っぽく見える……


 実家の家族の連絡先は覚えていたから連絡しようと思ったことはある。

 でもできなかった。理由は全く分からないけれど、あたしが連絡したら何だか大変なことになりそうな気がしたから。

 ……そういえば、こちらに越してきてから実家から電話でもメールでも手紙でも、何らかのコンタクトがあったことは一度もない。そんなに冷たい家族じゃなかったはずなんだけど……


 それに、自分自身の好みも変わった気がする。

 前はピンクやオレンジのような明るめの色のものを好んで着ていたのに、最近なんだか気恥ずかしいように思えてきてしまった。

 燈火が仕事に行っている間、あたしはよく食材などの買い物に行く。その際、ふとスーパーの服屋に立ち寄ってみたら、すごく自分好みの紺色のワンピースに一目惚れし、思わず購入してしまった。

 家に帰って、姿見の前で早速着てみた。大人しめだけど、上品さがあり、本当に素敵だった。


 見とれていて、燈火が帰ってきたのに気付かなかった。


「……ねえ、それ」

 姿見の中、あたしの背後に映しだされた燈火の呆然とした顔。


 途端、後頭部が痛んで、カッと怒りが湧いた。

「おばあさんの服みたい」

 高校生の時、そう笑われた記憶が蘇った。


 何これ。違う。燈火はそんなこと言わない。


 怒りの直後、どこか違うところに飛んで混乱した意識はしかし、燈火の次の言葉で現実に引き戻された。

「いいじゃん、素敵だよ」

 けれどその笑顔は、ほんの少し引きつっていた。


 服だけじゃない。

 家には燈火とあたしが共同で使うタブレットがある。燈火が定額で漫画が読み放題のサイトに登録してくれているので、あたしはよく利用している。

 あたしはラブコメ系の作品が好きで、よく読み漁っていた。その日もいつも通りに読み進めていた。

 けれど、何かが変だった。なんだろう、作品の内容は普段と変わらないのに……?

 あ、分かった。作品の問題じゃない。私が楽しめてないんだ。

 あれほど夢中になって読んでいた漫画なのに、全く面白いと感じられなくなっていた。慌てて他の好きだった作品を読んでみたが、かつてのように心が動くことはなかった。


 なんで? どうして?

 パニックになりかけていたら、トップページの「おすすめ」に表示された漫画が目に入った。マッシブなキャラ2人が向かい合っている表紙に興味を持ってタップしてあらすじを読んでみたら、バトル系の作品のようだった。

 面白そう。

 そのまま読んでみることにした。


 没頭していて、また気付かなかった。

「何読んでるのー?」

 帰宅してきた燈火があたしの肩越しにタブレットを覗き込んだ時、漫画はちょうどキャラの頭部が思いっきり破壊される様が荒々しく描かれたシーンだった。


 突然の燈火にぎょっとして、頭痛とともにムカムカした気持ちが腹の底から噴き出した。

 中学生の時、学校で借りたホラー小説を読んでいたら「こんなのじゃなくて、もっとかわいいの読みなよ」とほざかれた記憶が蘇った。


 えっ? 燈火にそんな風に言われたことなんてない!


 「すごいな迫力が。これ何てやつ?」

 続く燈火の声は、たった今思い出した声とは全く違う内容で。

 だから負の感情は霧散した。

 燈火の声が少し震えていたのには気付いたけれど。




「楽しかったねー、遊園地!」

 日々の違和感を振り払おうとはしゃぎすぎたせいで疲れたが、それは事実だった。

「そうだな」

 燈火は笑った。笑った、ようには見える。


 この頃、あたしと同じくらいの身長のはずの燈火が小さく見える。燈火らしい溌剌さを失い、どこか萎縮しているように見える。

 こういう人を、どこかで見た気がした。すごくよく知っている気がした。誰のことなのかは、分からなかった。


 燈火。

 何がそんなに辛いの。どうしてそれを隠そうとするの。あたし達の仲じゃない。


 毎日それを言おうとするのだけれど、あたしの中の何かが、それを遮る。

 言ったらこの関係が終わってしまう。本能がそう告げている。

 こんな不安定な関係性なんて嫌なのに。


 特に大きな違和感が二つある。

 一つは、前のように体に触れて愛してくれなくなったこと。

 もう一つは、頼まないとあたしの名前を呼んでくれなくなったこと。


 そこまであたしのことが嫌になったのならそう言ってくれればいいのに。

 いや、別れるのも嫌だけど、燈火に無理をさせるくらいなら別れた方があたしだって楽になれるのに。

 

 たとえ燈火に嫌われても、あたしは燈火が好き。それは変わりようのない事実。




 嘘。

 嘘、嘘、嘘だ。


 今気づいたのか、薄々感じていて、けれど見ないようにしていたのか。

 自覚した。私は燈火に、恋愛感情を抱いていない。

 二十数年間、互いを思い続け、愛し続けた記憶はしっかりとある。けれどその記憶は辿れば辿るほど、まるで映画で見た物語のようにどこか希薄で、他人事のように感じられた。

 私は今、燈火を愛してはいない。燈火のことはよく知っている。けれど、恋人でもなんでもない、ただの他人。


 何だこれ、でも、燈火は、記憶が、


 ずどんっ


 後頭部に衝撃が走る。知ってる。これはいつかどこかで、真っ暗な夜に感じた、あの意識を失うほどの激痛。そこから目覚めたら……




「……大丈夫?」

 こっちに歩いてくる燈火。こんな時でさえ、名前を呼んでくれないんだね。

 彩氷だよ。忘れちゃった? 嫌いになっちゃった?


「だ、大丈夫大丈夫、ちょっと、嫌なこと思い出しちゃっただけだから……」

 ごまかさなきゃ。あたしは燈火を傷つけたくない。

 あたしは、燈火が大好きだから。


「ほら、この話知ってると思うけど、今日行った遊園地、小学生の頃も一緒に行ったことあるじゃん? で、その時キャラクターのハンカチ買って、すごくお気に入りだったんだけどさ。ある時から急に見当たらなくなって、おかしいなあと思ってたら、お母さんが勝手に雑巾にして使ってたの! もうめっちゃ黒ずんじゃっててさー、ショックでショックで

 え? え?」


 知らない。今自分の口から出てきたこのエピソード、あたしは知らない。


 あたしの親は、あたしのプライバシーを大事にしてくれる人達だった。あたしのものを勝手に汚すなんて有り得ない。


 でも「女の子なんだからおしゃれしなきゃダメ」って言うくせに、中学の時私が自分で買ってきた髪留めをしてたら「蛾がとまってる」って笑ってきたりして、褒めてくれたことは一度たりともなかった。

 高校生になって自分で服やバッグや靴を買うようになったけど、「小学三年生だ」とか「安物でしょ」とか、馬鹿にするコメントしかしなくて、「このバッグお前に似合わないから親戚のおばさんにあげちゃえば?」と言って、本当に勝手にプレゼントされたこともあって、抗議しても逆ギレするだけだった。結局、母親が勝手に買ってくる好みじゃない服しか着られなかった。


 何それ、違う。あたしのお母さんは、あたしの好きなものを馬鹿にすることなんてなかった。おかしいおかしい、こんな記憶間違ってる。


 母親は私を人間だと思ってなかった。だから常に完璧を要求した。

 小学生の時国語のテストで99点を取ったら怒られた。そのテストでは文章の該当する箇所を抜き出す問題を一問間違えてて、それの正しい答えは「らです」だったんだけど、その日は一日中嫌味のように「らです! らです!」って言われ続けた。

 うどんの作り方を教えられないままいきなり「作れ」って言われて見よう見真似で作ってみたら、「まずいまずい」って言われて、「知らなかったよ。お前うどんも作れなかったんだ」ってため息吐かれて、ほとんど残されて、「お昼食べられなかったからお腹空いた」ってぼやかれて。

 父親は常に私に無関心だった。私が怒鳴られていても泣いていても無反応だった。まるで私が見えないみたいだった。もしかしたら、私はあの人の声を聞いたことがないかもしれない。

 いつの間にか、私にとって家は「帰る場所」じゃなく、「行く場所」になっていた。


 どういうこと? 両親の顔が違う! 優しい人達と、こっちの気持ちを踏みにじる人達の二組の顔が、「両親」として浮かんでくる。記憶が二重にある!

 待って、燈火は? なんでこの記憶には燈火が出てこないの? あたしの家庭はこんなんじゃなかった。けど万が一こんなんだったとしても、燈火が心の支えになってくれたはずなのに!


 私の意志なんて、常にないものとして扱われてた。私が私でいることは許されなかった。

 本当は大学に行きたかったのに、「お前を育ててあげたせいで、うちは貧乏なんだから」と高卒で就職させられて。考えてみればおかしな話だったんだ。共働きで、そこまで金がないとは考えにくいのに。

 合わない仕事で、気分が落ち込みやすくなって、行きたくなくて、でも行かないと怒られるから四年間働いて。

 なのに「管理してあげる」って言われて、信じようとして母親に預けていた給料は、ほとんど全部母親の夜遊びに使われてて。

 泣き叫んでキレたらそれ以上の剣幕と、人間の思考とは思えない超理論ぶちかましてきて、もう殺されるんじゃないかって思って。

 その間も父親はこっちに背を向けて新聞読んでて、一面には最近の政治の問題点が取り上げられていて、政治は気になるのに、今まさにここで起こってる問題には興味ないのかって思って。


 燈火は…… いない。この記憶には、いない。

 だって、これはあたしの記憶じゃなくて、私の記憶だから。


 その翌日も仕事で。無理やり働いて。でも終業後も、家には行きたくなくて。

 数少ない友人の中で、特に仲がいい、親友だと思ってた、教育関係の勉強してる子にメッセージアプリで全部ぶちまけてみた。前々から親の愚痴を聞いてもらって、理解してくれてると思ってた。

 でも返ってきた返事は「それでもお母さん達は、あなたのことを思ってるんだよ♪ 親だもん♪」みたいな、あんた話何聞いてたんだ、もしかして今まで何一つ理解できてなかったのかって、もうゲロ吐きそうになって、即座に連絡先ブロックした。

 もう二度と家に行きたくなくて、けどこんな私じゃ一人で行きていく自信はなかったし、行かないと怒られるし、けどきっと「家族の絆」だのなんだので誰も分かってくれないし、行くところない、もうわけ分かんないって。

 夜の真っ暗闇の中、一人でそのへんの電信柱に寄りかかって、スマホで面白くも何ともない動画を見て時間を潰してて、どうしよう、どうしようって思ってたら、後ろからいきなり頭にずどんっ




 堰を切ったように一気に頭の中に流れ込んできた、いや、蘇ってきた記憶の数々。私の、これまでの人生。


 顔を上げた先にいた燈火は…… 真っ青を通り越して色を失っていた。察したのだろう、私の変化を。

 少し迷って、けれどこれまで通りの呼び方で呼ぶことにした。

「どういうことか説明してくれるよね…… 燈火?」


 数秒の沈黙をはさみ…… 燈火は、頷いた。うなだれたようにも見えた。

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