第374話 アーニャ

「アーニャ。準備は出来た?」


「ハーイ」


 母の言葉に、元気よく手を上げ笑顔で答えたアーニャは、まだ7歳の小さな女の子だ。何の特徴もない至って普通の人族の子供である。

 身寄りは母親だけで。父親は幼い頃に亡くなっている。

 アーニャは差し出された母親の手をしっかり握ると、家の扉からは陽の光が溢れ出した。

 ヤート村では、豊穣祭の準備期間で大忙し。アーニャの母親であるアマンダは、その寄合に顔を出す為アーニャを村長の家へ預けに行くところであった。


「今日は村長さんのお家で大人しく出来る?」


「うん!」


 満面の笑みでアマンダの顔を見上げるアーニャ。繋いだ手を大きく振って、母親の歩幅に合わせるように小走りで村長の家へと向かったのだ。


「本日はよろしくお願いします。村長さん」


「ワシに任せなさい。アマンダさんは寄合の方、よろしく頼みますよ?」


「もちろんです」


 アマンダが手を離すと、アーニャは一目散に家の中へと駆けていく。


「アーニャ! 大人しくしているんだよ!?」


「ハーイ」


 遠くから聞こえるアーニャの返事。溜息をつきながらも子供の元気な様子に、アマンダと村長は頬を緩めた。


 村長の家には他にも1人の子供がいた。ジャンはアーニャと同い年の活発な少年である。それは村長の子ではなく、アーニャと同じ片親の子。

 この村では村長の家が小さな託児所のようなもの。特に珍しい光景でもなかった。

 アーニャの目的は1つ。本棚に置かれた村長の寝室。本は村では珍しい。それを読むのが村長の家でのアーニャの楽しみなのだ。

 手の届く場所から本を1冊引っ張り出すと、勢い余って尻もちをついた。

 お尻を払って村長のベッドによじ登ると、子供にはまだ重いであろう本を開き、アーニャはまだ見ぬ冒険へと出発したのだ。

 もちろんアーニャは字が読めない。楽しむのは所々に描かれている挿絵である。


「わぁ……」


 キラキラと目を輝かせるアーニャ。それを見て想像を膨らませれば、待ち時間も苦にならない。


「おい、アーニャ! 本ばっか見てないで僕と外で遊ぼうぜ」


 そんなアーニャを現実に引き戻したのは、ジャンである。もちろん一緒になって遊ぶこともあるが、今日はそんな気分じゃなかった。


「今日はいい」


「なんでだよ! アーニャのクセに生意気だぞ!」


 ジャンは誘いを断ったアーニャの服を掴み、ベッドから引きずり降ろそうと試みる。


「やめてってば!」


 その声を聞きつけ、杖を突きながらやってきたのは村長だ。溜息をつきながらもジャンをやさしく叱責する。


「これこれ。ケンカはイカンよ?」


「べ……別に喧嘩じゃねーし!」


 ジョンが別の部屋へと駆けていくと、残されたのはアーニャと村長。


「ありがとう。村長さん」


「アーニャちゃんは、ちゃんとお礼が言えて偉いのぉ」


 村長のしわくちゃの手が、アーニャの頭を撫でると、アーニャは何かを思い出したかのように立ち上がった。


「そうだ! 村長さん! わたしあのご本が見てみたい!」


 それは本棚の最上段にある一際輝く本。そして最も汚れている本でもあった。


「あの本は危ないからダメじゃよ?」


「知ってる! 高くて手が届かないからでしょ? だから村長さんがとって!」


 確かにそう言う意味も含んでいたが、そうではなかった。


「あの本はタニアが……死んだ婆さんが大切にしていた本なんじゃ。アーニャちゃんには、難しいと思うんじゃが……」


 村長とその妻であるタニアは元シルバープレートの冒険者。知り合いの領主から村の開拓を任され、それを期に2人は若くして冒険者を引退した。

 以来50年近く、骨を埋めるつもりでこの村を見守ってきたのだ。

 その本は、タニアが冒険者であった時に使っていた1冊の魔法書。村長にとっては形見のような物である。

 それを見たのも久しぶりだった。村長はアーニャのおかげでタニアの事を思い出し、感傷的になると涙腺が緩んでしまった。


「一緒になら……見てみるかい?」


「うん!」


 杖を置き、村長がベッドに腰を下ろすと、その隣にちょこんと座るアーニャ。まるで急かすように身体を揺らすその姿は、子供がいない村長には微笑ましく見えた。

 村長に魔術の適性はない。もちろん読む事すら叶わないが、それをタニアから見せてもらった若かりし頃を思い出し、感慨に耽りながらもページを捲っていった。


「あっ。ちょっとまって!」


 突然、アーニャが村長の手を押さえた。そのページの右側には大きな挿絵。丘に立った魔術師が天高く杖を掲げているイラストが描かれていた。

 杖から迸る雷光が暗雲を切り裂いているその様子は、力強くも幻想的であり、村長はその挿絵がアーニャの気を引いたのだろうと思った。


「アーニャちゃんは、この絵が気に入ったのかい?」


 ふとアーニャの顔を覗き込んだ村長はハッとした。アーニャは挿絵を見ていたわけではなく、その隣のページを見ていたのだ。

 左から右へと流れていく視線。それを何度も繰り返す。アーニャはそこに書かれていた文字を目で追っていた……読んでいたのである。


「おうごんの……くさびがつむがれ……たばとなす……」


 村長は急いで本を閉じ、アーニャの口を押えた。


「ダメじゃ! それを読んではイカン!」


「むぐぐ……」


 その手を離すと、アーニャは息を大きく吸い込み深呼吸。安堵の表情を浮かべたかと思うと、すぐに頬を膨らませた。


「村長さんずるい! 見せてくれるって言ったのに!」


「ごめんよ。アーニャちゃん。でもこの本を口に出して読んではいけないんじゃ……」


 村長でさえ読めないそれをアーニャが読めたという事は、適性があるということに他ならない。

 村長は悩んだ。それを母親に教えるべきか……。それは才能である。だが、それを伸ばそうとするなら村は出て行かねばならない。この村にはギルド支部がないのだ。

 もちろん冒険者だけが進む道ではないことは百も承知だが、どちらにせよ村では宝の持ち腐れである。




「今日ね。村長さんのおうちで本を読んだの! 私でも読めたんだよ! すごい?」


「ええ。すごいわ。アーニャはママの自慢よ?」


 結局村長はアマンダにそのことを話し、アマンダはそれを素直に喜んだのだ。


「ねぇアーニャ。もっと本を読みたい?」


「うん!」


「そう。……今日ね、村長さんに聞いたのよ? アーニャには魔術師の才能があるんですって」


「まじゅちゅし?」


「そうよ。不思議な力で何でもできちゃう人達の事をそう呼ぶの。それでね、アーニャは将来魔術師になってみたい?」


「うーん……。よくわかんない……。ママはわたしが、まじゅちゅしになったらうれしい?」


「そうね。鼻が高いわ。……でもアーニャ、それはあなたが決めることなの。ママの事は気にしちゃダメ。でも、魔術師になりたいなら私はアーニャの事を応援するわよ?」


「ほんとに!? じゃぁなる! いっぱいご本が読めるといいなっ」


 無邪気に笑うアーニャにアマンダは笑顔で返し、アーニャをそっと抱き寄せた。

 アマンダは決心したのだ。娘を立派な魔術師にする為、魔法学校に通わせようと。

 それは海を挟んだ隣の国。アーニャが希望するのであれば、村長がその旅費を負担してくれると言ってくれたのだ。

 学費は正直足りないが、アマンダはまだ30代。働き盛りであり、亡き夫の残してくれたお金もある。それでも足りなければ、アーニャが魔法学院に入学できる歳になるまでに貯めればいいのだ。

 アーニャには輝かしい未来が待っている。誰もがそう信じて疑わなかった……。

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