水たまりの向こう側

うるう

水たまりの向こう側

 僕だけがこの世界の秘密を知っている。


 その秘密に初めて気が付いたのは幼稚園に通っていた時だった。

 朝から降っていた雨がお迎えの時間にはあがり、園庭にできた無数の水たまりに、園児たちは夢中で踏み込んでいった。しかし僕はその日長靴を履いてきていなかった。出がけに履こうとしたら、去年の長靴はもう小さくなっていて、「新しいのを買おうね」と母と約束したんだ。皆のように水しぶきをあげてはしゃぎたかったけれど、靴のまま水たまりへ飛び込んだら、母の機嫌を損ねて、長靴を買ってもらえないかもしれない。僕は恨めしく、目の前の水たまりをじっと見つめていた。


 濁った水に歪んだ僕が映っている。わずかな風にも水面はふるふると揺れる。それに合わせて僕の姿もふるふると揺れる。おもしろい。まるで僕じゃないみたい。


 そう思った途端、そいつがにやっと笑った。



 子供はみんな水たまりを踏みつける。大人はみんな水たまりを避けて通る。だから誰も気付かない。水たまりの向こう側に、僕たちにそっくりの顔をした、何かが住んでいるということを。僕にはわかる。あいつは僕と入れ替わろうとしていて、いつも僕の隙を窺っているんだ。



 それから僕は極力水たまりを避けて歩いた。母は最初不思議に思ったようだったけれど、靴も服も汚さない良い子だと僕を褒めた。

 どうしても水たまりを歩かなければいけない時には下を見ない。前だけを見て黙々と歩く。けれど、わかる。あいつがぼくに歩調を合わせて、僕の下を逆さまに歩いているのがわかる。僕がどんなに走っても、急に方向を変えたとしても、あいつはぴたりとついてくる。そしてにたにたと笑っている。


 僕は雨の後には外を出歩かなくなった。



 小学校へあがっても、僕は警戒を解かなかった。さすがに雨の度に学校を休むわけにはいかなかったが、降水確率40%以上の日は友達と遊ぶこともしなかった。

 その日は一日中快晴であるということをテレビの気象予報士が言っていた。それを確認した僕は、買ってもらったばかりの赤い自転車で友達の家へ向かった。彼が読みたがっていた漫画を貸して、僕はまだやっていないゲームソフトを借りた。


 帰り道、突然大粒の雨が降り出した。「あの嘘つきめ」と、頭の中で気象予報士に悪態をつく。みるみるうちに水たまりができ始めた。早く帰らないとあいつが出てくる。しかし借りたソフトを水浸しにするわけにもいかず、僕は雨宿りを余儀なくされた。



 降り始めたのと同じように、雨は突然あがった。雲の切れ間から神々しいほどの光が差す。もしかしたら虹も出るかもしれない。でもそんなことに関わっている場合ではない。早く、帰らないと。


 跨った自転車の下で、同じ赤い自転車に乗ったあいつがにやりと笑う。僕は意を決して漕ぎ出した。あいつも同じように漕ぎ出した。スピードを上げる。あいつもスピードを上げる。不意を衝く作戦で、いつもとは違う道へハンドルを切ってみる。あいつはついてくる。Uターンはどうだ。振り切れない。家はまだ遠い。ペダルの回転数を上げる。道路の僅かな段差にも車体が大きく跳ねる。息が切れる。足が重い。それでもまだあいつは僕の下にいる。足が止まれば、抵抗できなくなった僕を水たまりに沈めてしまうに違いない。嫌だ。あいつを置き去りにするんだ。追い付けないくらいに。もっと。もっと。もっと早く。



 突然のクラクションに驚いて、僕はブレーキを握りしめた。タイヤが嫌な音を立て、自転車はバランスを崩して倒れた。むき出しの肘がアスファルトに擦れた。ひどく痛みを感じたが、僕の目は前方に釘付けだった。

 逆さまのあいつが、そのままのスピードで道路へ飛び出していく。一瞬僕を振り返ったような気がする。そしてその上を巨大なダンプトラックが唸りをあげて通過した。


 僕の心臓はドクドクと耳の傍で脈打っていた。それは全力で走ってきたせいなのか、それとも今まさに命の危険を感じたからなのか。ダンプトラックが踏みつぶした水たまりには、波紋だけが残っていた。そこには何もいなかった。


 大人になった今でも、僕は時々水たまりをじっと覗いている。それを見た人は「何をしてるんだ?」と笑うけれど、僕はいたって真剣だ。

 あの突然の通り雨の日以来、あいつの、いや僕の姿は、水たまりに映らない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水たまりの向こう側 うるう @uruu_n

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ