二千円札の冒険

大和田光也

『二千円札の冒険』

    

 ああ、もうイヤだ。イヤだイヤだ。こんな自分がいやでたまらない。もう、我慢も限界だ。こんな、暗く狭いところで、だれにも気づかれないまま、最後は、古紙と一緒に再生紙にするために溶かされてしまうなんて、そんな生涯なんて耐えられない。もう、我慢できない。外の世界に出てやろう。世の中のきまりなどを守っていたら、永遠に救われない。

 アッ!ちょうどいいや。この家の奥さんが、ぼくの置かれているこちらの本立の前に近づいてきた。ヨーシ、ちょっとガサゴソ音を立ててやろう。ぼくは両手両足の四隅を思い切り動かした。

「アラ、今何か音がしたようだわ。この本の中からのようだけれど、虫でもいるのかしら?」

 奥さんは、ぼくが挟まれている本を取り出してペラペラとめくった。そしてちょうどぼくが挟まれているページを開いた。ワッ、まぶしい!何年かぶりの明かりだ。

「マア、こんなところにお札を挟んでいるわ。それもほとんど使われなくなった二千円札だわ・・・さては、主人がへそくりで挟んだままにしていて忘れているに違いない。ちょうどいいわ、これから買い物に出かけるから小遣いにもらっておこう」

ヤッター、脱出に成功。奥さんはぼくを財布に入れると早速自転車に乗って出かけた。

「そうだわ、せっかく二千円、予定外のお金が入ったんだから、好きに使ってやろう。まず、おいしいジュースを飲もう」

 奥さんはぼくを財布から取り出して店の前に置いていた自動販売機の中へ入れた。ぼくは、機械の中に入るなんて嫌だ、と思っていると、いったん飲み込まれてからまた外に吐き出された。コインが出る代わりに、変にあわてた店員が店の奥から駆け足でやってきた。

「お客さん、すみません。この機械は、二千円札は使えないんです。私の千円札と交換しますので、これを使ってください」

 ぼくは、店員の財布の中に入れられた。店員は、また急ぎ足で店の奥にある事務所の中に入った。

「なんだ、杉本さん、まだいたのか。早く帰ってやれよ。間に合わなくなるぞ」

 店長らしき男が店員に言った。

「ハイ、それじゃ、早退させていただきます」

 杉本と呼ばれた店員は、さらに慌てた様子で事務所を飛び出して、車に乗った。車を運転しながらも使っていない片方の手足をせわしく動かしていた。

 やがて一軒の病院に着いた。駐車場から全力疾走で玄関の中へ入っていった。入り口には産婦人科と書いてあった。店員は病院の廊下も勢いよく走ったので、看護士から叱られた。それで今度は、競歩でもしているように、目当ての部屋の前に行った。部屋には、分娩室と書いてある。

「もうすぐ生まれますから中には入らずに、廊下で待っていてください」

 看護士に言われて、長椅子に座ったが両手両足をバタバタと動かす。少しして、部屋の中から元気な泣き声が響いてきた。

「オギャー、オギャー・・・」

 店員はびっくりしたように立ち上がった。

「元気な男の子の赤ちゃんが生まれましたよ。おめでとうございます。回復室の方に移しますから、もう少し待っていてください」

 しばらくして看護士が合図したので、回復室の中へ入った。部屋は個室なのに余裕の広さだ。

「早苗、高齢出産、ご苦労さん。おめでとう。よかったよかった」

 店員は泣かないばかりに感激していた。

「勝彦さん、ありがとう・・・」

 母親になったばかりの奥さんも、少し疲れた顔に涙を流して笑っている。母親の横には柔らかいガーゼにくるまれた頭の髪の毛の黒々とした赤ん坊がスヤスヤと眠っていた。足首には、杉本勝典と書かれた名札がひもで付けられている。夫婦は長い間、赤ん坊をあやしながら楽しそうに過ごしていた。夕食も終わり外は暗くなっていった。

「さあ、私はそろそろ家に帰るよ。明日また仕事が終わればこちらに直行するよ」

 店員は父親になった満足感で幸せそうだった。

「アッ、忘れていた。勝彦さん、おしめ代の二千円を出しておいてちょうだい。明日の朝、業者の人が集金に来るから。細かいものがないの」

「いいよ。ちょうど二千円札があるよ」

 父親はポケットから財布を取り出すとぼくを引き出してベッドの横の台の上に置いた。父親が病室を出ると、母親はしばらく赤ん坊をあやした後で、口をだらしなく開けて熟睡した。赤ん坊も時々怒ったように体を動かすが、眠り続けていた。ぼくもずいぶん久しぶりに明るい所に出てきたので疲れて眠くなった。

          *   *   *

「おい、なんだよ、もう寝るのかよ。まだ、夜になったところだぞ。楽しいのはこれからじゃないか」

 どこからか声が聞こえてきた。ぼくは驚いて目が覚めた。どこから声がしたのかと常夜灯の薄暗い中で部屋を見回したが、母親と赤ん坊しかいない。母親は相変わらず熟睡している。気のせいかと思ってまた眠ろうとした。

「オイ、オイ。俺はここにいるよ。俺は赤ん坊だよ」

「エーッ!」

 ぼくが驚いて赤ん坊の方を見ると、目をキョロキョロと動かしながら口をパクパクと開けてしゃべっている。

「赤ん坊が生まれたてなのに、しゃべれるのかい?」

「そうだ。赤ん坊というのはすごい能力を持って生まれているんだ。人間にはそれが分からない。言葉も通じないけどね」

「素晴らしいねえ。それでなくても人間の赤ん坊は多くの人に祝ってもらって、幸せだねぇ。ぼくなんか、生まれたって誰も喜んでくれはしない。逆に、使いにくいといって嫌がられるくらいだ」

 ぼくは赤ん坊をまぶしいようなまなざしで見た。

「なに言っているんだ。物事をそんなに表面からだけ見てはいけないよ。どれほど俺は今まで苦しい生活を送ってきたことか、君なんかは想像もできないだろう」

「本当に?幸せな赤ん坊がどうしてそんなに苦しいの?」

「そんなこと、少し考えたらわかりそうなものだ。狭い母親のおなかの中での生活が、どうして楽しいものか。真っ暗な狭い空間で、自由に身動きすることもできない。もし母親が、熱いお湯の風呂にでも入ってみろよ。まるで窯の中でゆでられるように熱い。もしまた母親が夏の暑い日に、気持ち良い、と言ってアイスクリームでも食べてみろよ。俺は寒さに身が切られるような思いがするんだぜ。そして、母親が腹いっぱいメシを食ったときは、からだが圧迫されて、その痛いことといったら、耐えられないほどだ。逆に、腹が減っているときは、水圧が減少してしまって、十字架に張り付けにされて逆さまにつるされているような苦しみを受ける。耳鳴りはするし頭痛も激しくなり耐えられないような気持ちになるんだ。そうかといってどこかに逃げるわけにはいかないだろう。臨月になって生まれて出ようとするときには、頭が前後左右から圧迫され、まるで巨大な岩山の間に挟まれてつぶされそうな恐怖を味わうんだ。いよいよ生み出たときは、看護士が肌を傷つけまいとして柔らかいガーゼで体をふくが、これには困ってしまう。おなかから出てきたときの皮膚は、ガーゼがまるで針の出ているカーペットと同じに感じられるのだ。だから、痛くて大声を出して泣くんだ。するとそれを、元気な声を出している、と言って喜ぶんだから、とんでもないことだ」

 赤ん坊は昔を思い出しているように目をパチパチさせた。

「フゥーン、人間の赤ん坊は幸せそうに見えるけれど、ずいぶん苦労があるんだね」

 ぼくは感心して言った。

「そうだよ。それに比べて君なんか、幸せそのものじゃないか。なんとかいう総理大臣がさあ、自分の記念のために、二千円札を考えたんだろう。そして何の苦労もなくそんな立派なお札に印刷されたじゃないか。こんな幸せなことはないよ。俺から見れば君はこの上なく幸せなものだ」

 赤ん坊はうらやましそうにぼくを見た。

「さあ、夜もふけたから、そろそろ行こうぜ。円君」

 赤ん坊は、ひょいと起き上がってあぐらをかいた。

「エッ?赤ちゃんのくせに座れるのかい。それにぼくのこと今なんて呼んだ?」

「君のことを円君と呼んだのだよ。だって君は二千円札だろう。略して円君だ。それに、赤ん坊だって座れるよ。座れるどころか、大空だって自由に飛べるんだ。それと、俺にもちゃんと名前があるんだぜ。アーナンダというんだ」

 ぼくは赤ん坊の足首にはめられている名札をよく見た。

「だけど名札には杉本勝典という名前が付けられているいるじゃないかい」

「何言っているんだよ。これは人間が勝手につけた名前で、俺とは何も関係ない。俺の命はもともと昔からあって、たまたま、今日、杉本勝典という名前を付けられてこの家に生まれただけだ。もともとの俺の名前はアーナンダなんだ。だから君も俺のことをアーナンダと呼んでくれたらいいんだ」

 ぼくは何が何だかよく分からなくなった。

「さあ、それじゃ最初に、ドルばあさんのところで行こう」

 アーナンダはスックと立ち上がると、ぼくを口にくわえて、万歳をするように両手を高く上げた。すると、からだがフンワリと病室の中に浮いたかと思うと、するりと簡単に窓を通り抜けた。それからぐんぐんと天空へと登っていった。地上の明かりがみるみるうちに小さくなってゆくと同時に、天空いっぱいに無数の星々の輝きが増してきた。 やがて、日本全体が地球儀で眺められるような形に見えてくると、太平洋を横切るように飛び始めた。

「すごいねえ、すごいねえ。アーナンダ」

 ぼくは心が躍るような気持ちになった。

「そうだよ。へその緒がついている間は、暗い、狭い母親の胎内にいなければいけないけれど、へその緒が切れるということは、母の胎内から飛び出して、宇宙に自由に行き来することができるということだ」

 アーナンダは口にくわえているぼくが落ちないようにうまく唇を動かして話した。やがて視界にハワイの島々が入ってきた。そして見る見るうちに真下になり通り過ぎてしまった。今度は大きな北アメリカ大陸が見えてきた。

「ワーッ、やはりアメリカは大きいね」

「そうだろう。日本なんか、ちっぽけなキュウリみたいだろう。あそこにドルばあさんがいるよ。人のよいばあさんで、きっと、たのしい話をしてくれるよ」

 アーナンダは万歳した両手をアメリカ合衆国の方に向けて急降下し始めた。すぐにアメリカが視界の中に広がっていった。それでもなお、降りて行くと、家々の町並みがはっきりと見えるようになった。都市から離れた郊外の、どこにでもあるような一軒の家の窓から部屋の中に入った。

「ここがドルばあさんの家だよ。おばあさんはここで独り暮らしをしているんだ」

 アーナンダはドルばあさんの家の中の様子がよくわかっているようで、リビングの方へと進んでいった。

「おばあさん、居るかい?」

 アーナンダは大きな声を出した。

「おや、これは珍しい、アーナンダじゃないか。こちらにおいでよ。ひさしぶりだね。前に会ったのはもう何百年も前のような気がするねぇ」

 ドルおばあさんは安楽椅子でうつらうつらしていた。

「ドルばあさんは元気そうだね」

「イヤ、もう百歳よ。身の回りのことや簡単なことは自分でできるが、多くのことはヘルパーさんに任しているよ。ところで何を口に挟んでいるんだい」

「ああそうそう、これは日本の円君なんだ。今日、俺と一緒におばあさんの家に遊びにきたよ」

「今日は。お邪魔しています」

「そうかい、そうかい。疲れただろう、こちらでゆっくりしなさい」

 おばあさんはアーナンダの口に挟まれているぼくを手で取って、そばの机の上に置いた。

 ドルばあさんは、年とった魔女のような感じがする。

「年をとるということは厳しい現実だね」

 おばあさんは物思いにふけるような表情になった。

「鏡を見るたびにふけてゆく姿を見ると自分のことながら、がっかりするよ。昔きれいだっただけにさあ、ヒッヒッヒッ・・・」

 おばあさんのかん高い声が部屋中の壁に当たって響いた。

「何よりも、食べ物にしても、心のような精神的なものにしても、年をとると受け入れる限界がだんだん小さくなってねえ、わずかなことでも受け入れられなくなるんだよ。何よりもすべてにおいて、残りが少ないという気持ちにさいなまれるからねぇ。老いて衰えることの苦しみは、とても耐えられるものではない。一人でいるとこんなことばかり考えているんだよ。だけど、こうして若い二人が来てくれると、老いの苦しみも忘れてしまって、心にパッと明るい灯がさしたような嬉しい気分になるんだよ」

 ドルばあさんはぼくたち二人を親鳥が雛を抱えるようなしぐさをしていた。

「特に、円君なんかは、老いてゆくことを心配しなくてもよいから、これほど人生において幸せなことはないよ」

 ぼくの顔をうらやましそうに見ている。

「いえそんなことはないです。ぼくも紙が古くなればやがて破けてボロボロになってしまうに違いありません」

「何言っているんだよ。日本のお金の紙は大変、すぐれものだよ。何百年たったって生き続けられるよ。だってそうじゃないかい、日本では今でもよく七百年も前に書かれたものが大切に博物館などに展示されているじゃないかい。まして、円君なんかは現代の優れた印刷術で作られたものだよ。千年でも生き延びられるよ。老いの苦しみなどとは無縁だよ」

 ぼくは何か、自分の人生が豊かな時に満たされるような期待で心が温かくなった。

 アーナンダとぼくは、ドルばあさんとその後も長い間、話をした。いつまで話をしても飽きがこなかったどころか、ますます心が通じて楽しくなり、いつまでも話して居たくなるような気がした。

「さあ、あまり長居はできないよ、円君。そろそろ帰らなければいけない」

 アーナンダは立ち上がるとまたぼくを口にくわえた。

「また、ぜひとも来ておくれ。あんた方が来てくれるのが唯一の年寄りの楽しみだからね。気を付けて帰るんだよ」

「ハイ、それじゃおばあさんさようなら」

「おばあさん、ありがとう。ぼくの心を豊かにしてくれて嬉しいです」

 ぼくも心からお礼を言った。

         *   *   *

 アーナンダは両手を挙げてぐんぐんとアメリカ大陸から離れて行った。それから大西洋を横断するように針路をとった。しばらく飛んでいると、ヨーロッパ大陸が見えてきた。それを横断して、ますますスピードをあげながら進んでいった。やがて、黒海やカスピ海が眼下に見えた。ウズベキスタンを過ぎると右下にタクラマカン砂漠、その先にはエベレスト山が神秘な姿を見せていた。また左上の方角にはゴビ砂漠が見えていた。やがて中国大陸を越えて進んでいくと日本海と日本列島が見えてきた。同時に、太平洋の水平線から太陽が見えてきた。アーナンダは日本列島に両手を向けるとすごいスピードで急降下していった。そして母親のいる病院をめざして一直線に飛んだ。

 病室に帰ったときには周囲が明るくなり始めていた。母親は相変わらず熟睡していた。

「ヨーシ、これで見つからずにすんだ。じゃ、円君も前のところに置いておくよ。俺は母ちゃんの横で寝よう」

 アーナンダが母親の横に滑るように入って眠ったふりをすると、母親が目を開けた。

「あら、昨日、分娩で疲れたからずいぶん熟睡してしまったわ。勝典ちゃんもよく眠っていること」

 母親はアーナンダの体をガーゼで優しくふいた。

「ギャー、ギャー・・・」

 アーナンダが大きな声で鳴きだした。肌をこすったら痛い、と怒っているのだが、母親には通じない。

「アラ、目を覚ました。おなかがすいたのね。さあ、おっぱいを飲みなさい」

 母親は乳首を出してアーナンダの口に持っていった。

「ギャーギャー」

 アーナンダは、腹が減っているのではない、痛いと言っているんだ、と言っていたが、いっこうに母親には通じない。母親はむりやりにアーナンダの口に乳首を入れた。アーナンダは口をふさがれて泣けなくなった。ぼくはおかしくなって噴き出して笑ってしまった。アーナンダが乳首をくわえたままジロリとぼくの方を見た。

 やがて窓から朝の光が差し込んできて部屋が明るくなった。病院もさまざまな音がし始めて、活気づいていくようだった。しばらくして、おしめや日用品の配達をしているお店の夫婦が入ってきた。

「おはようございます。おしめやその他の注文の品をここに置いておきます」

 おかみさんが品物を台の上に置いている間に、亭主は使用済みのおしめやゴミを袋に入れていた。

「ありがとうございます。代金は台の上に二千円札を置いていますので持っていってください」

 母親が胸にアーナンダを押し付けたまま、ぼくの方を指さしている。

「アラ、珍しい、二千円札だわ」

 おかみさんはぼくを手に取ると、集金したお金を入れる財布とは別に、上着のポケットの中に入れた。

「あんた、お金はいただいたから、次の部屋に行くわよ」

 おかみさんは亭主に命令するように言った。

「バイバイ、幸せにな・・・」

 アーナンダは後ろ向きになったまま、口がふさがって言いにくそうな声を出した。

「さようなら、アーナンダ」

 ぼくはポケットからちょっと顔を出して言った。商店の夫婦は、自宅兼用の雑貨店まで帰った。亭主が車を車庫に入れている間に、おかみさんは店を通って奥の居間に入った。それから、ずいぶんうれしそうな顔をしてポケットからぼくを取り出した。

「ホホホ、へそくりにしておこうっと」

 こういうと、料理の本を取り出してその中にぼくをはさむとぱったりと閉じて、本棚に戻した。

 またぼくは真っ暗な狭い中で、いつまでも変わらない生活をしなければならなくなった。でも、前の時とは気持ちが違っていた。今は、これからの自分の人生に満足ができ、幸せを感じることができるような気がした。             

(おわり)

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