第五十髪 彼は知る それはまぎれも ない事実

 そのまま時折ときおり眠りに落ちていたのだが、莉々りりが居るせいだろうか、あちらの世界へ再び行く兆候ちょうこうが全くないまま、朝となった。

 今週は変則的で、月曜日は平日だが、翌日火曜日はまた休日となる。

 極度きょくど疲労ひろうから回復し、幾分いくぶんかは動けるようになった慎太郎は、普段通り朝の支度したくをする。

 洗面台の鏡の前に立つと、目に見えて頭部が薄くなっているのを再確認し、思わず深いため息がつい出る。

 改めてまくらの周辺も確認したが、シーツに若干の抜け毛が見受けられるも、明らかに本数が合わない。

 やはり、あの一連の出来事はのだろう。

 毛量の関係でセットもしようが無いので、折角せっかく頂戴ちょうだいした育毛剤『下北沢スペシャル』のみ軽く塗布とふする。

 体力は完全に戻ってはいなさそうだが、本日は重要な会議があるため、休むに休めないし、会社に行かなければ莉々りりまで休みかねない。

 慎太郎は気を引きめると、企業戦士サラリーマンの顔になった。


「パパ。ママ、もしかして戻ってきてないのかなあ」


 リビングに戻ると冷蔵庫の前にいる莉々は、少し困った表情で慎太郎を見る。


「どうした」

「作り置きがなくて」

めずらしいな……。まあ、まりみなのかもしれないな」


 例のごとく夜戦病院じごくえずと化している関係で、ひどいことになっているのだろう。

 慎太郎は端末のメッセージアプリを開き、妻とのやり取りの画面に遷移せんいするが、いつもは遅くとも数時間でつく既読もなければ、返信も当然ない。

 最後のメッセージは、「しんどいー、終わったらサーモンのお刺身さしみ食べたいー」だった。


「ママも頑張っている。そうだな、何か作ろうか」

「あ、じゃあ私サラダ作るから、パパはたまご焼いて」

「ああ」


 早朝にベーコンと卵の焼ける美味おいしそうな匂いがキッチンにただよう。

 莉々は慣れた手つきでチルド室に入っていた葉野菜はやさいを千切りにし、軽く湯通ししてシャキッとさせると、トマトなどと一緒に盛り付ける。

 その最中さいちゅう、不意に莉々が慎太郎にたずねる。


「ねえ、パパ」

「どうした」

「あの、昨日の……」


 そこまで言って、うまく言葉にしづらいのか、口ごもる。

 慎太郎は皿に半熟のベーコンエッグを盛り付け終わると、莉々へ気になっていたことを逆に尋ねてみた。


「パパは昨日、どうなっていた?」

「えっ、その……、変なこと言ってもいい? 笑わない?」

勿論もちろん、笑うもんか」

「うん。じゃあ、えっと、パパの身体がけてたの。キラキラしてて……」


 莉々はその時のことを思い出す。

 イベントが終わり、打ち上げという名のカラオケを皆でひとしきり楽しんだ後、莉々は自宅へと帰りついた。

 予定より少し遅くなったため、流石さすがに怒られるかもと思い、色々と言い訳を考えながら玄関を上がった莉々だったが、いつものような両親どちらかの出迎えがなく、家の中はがらんとしていて薄暗いままだった。

 あまりの人気のなさに動悸が収まらない。不安に駆られ、急いで自室に荷物を置き、恐る恐る寝室を覗き込むと、そこでは信じられない光景が起こっていた。


「これ、前と同じ……! パパ!」


 それは数日前の夜中にリビングで見た、あの現象の再来だった。慎太郎の身体は下にかれたシーツがはっきり分かるほどに透きとおり、その輪郭りんかくはまるでダイヤモンドのように七色なないろの乱反射を繰り返していた。

 慌ててとなりに行き、恐る恐る手を近づけてみるが、


「えっ、なんで……どうして!」


 触れることが出来ず、そのまますり抜けてしまう。

 実体が、無いのだ。

 震える手で何度も何度も触ろうと試みるが、何の感触も得られない。

 莉々に出来ることはただ泣きじゃくりながら、父に呼びかけるだけであった。


「そうか……」


 一連の話を聞き、慎太郎は確信した。

 やはり、何らかの形で、私はあの世界に行った。

 それはつまり、この世界での実体は希薄な存在になるということなのだろう。

 莉々を見ると、その時のことを思い出したのか、少しなみだぐんでいる。

 慎太郎は笑いながら莉々へと声をかけた。


「大丈夫だよ。パパはここに居る。さあ、時間もないし、食べようか」

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