第四十八髪 歪む視界 こぼれる記憶 遠ざかる

 ルピカを見送った慎太郎しんたろうは、ふう、とひと息つく。

 その瞬間、足に力が入らなくなり、ふらりと体勢をくずす。


「慎太郎様!」

「ああ、……大丈夫だ。ちょっと休もうか」


 大巫女だいみこに支えられながら、慎太郎は泉のすぐそばにある、中庭が一望できるベンチで一休みすることにした。

 羽衣スーツのおかげで身体はぽかぽかと温かいが、顔に当たる夜風はやはり少し寒さを含んでいる。

 エビネはやや標高の高い場所に位置するようで、この時期は一段と冷え込む時間帯もあるのだという。

 隣に座る大巫女がゆっくりと身体を預けてくる。


「慎太郎様は、温かいですわね」

「……君も、な」


 触れ合った部分はお互いのぬくもりで熱くなる。

 普段からただよ蠱惑的こわくてきな甘い香りが、慎太郎にはどうしようもなく心地良い。

 すぐそばに大巫女の顔があり、息遣いきづかいが近づいてくる。

 何とも言えない雰囲気に、気持ちが流れていきそうになる。

 だが、一方で妙に冷静になる部分もあった。


「何というか、……すまない」

「うふふ、そんな。今度こそは、とほんの少し期待しましたけれど」


 アプローチが失敗したというのに、なぜかその顔はとても嬉しそうだ。

 こういう所が、このの魅力だな、と改めて気付かされた。

 慎太郎は自分が若く、まだ妻も娘もいなかったら、彼女に夢中だっただろうな、と、運命というものの奇妙を感じざるを得ない。

 そんなことをぼんやりと考えていた時のことだった。


 突然、くちびるやわらかいものでふさがれる。


 気づけば、翡翠色ひすいいろひとみがすぐ前に広がっていた。

 その目は悪戯好いたずらずきの精霊せいれいのように、あやしくきらめいている。

 だがそれは刹那せつなで、すぐにその感触が消えてしまうと、少し身体を離してのぞき込むように大巫女は微笑ほほえむ。

 そして、


油断大敵ゆだんたいてき。私は熱しやすく冷めにくく、ねばり強い女ですから。お気をつけ下さいね」


 そう言って、ホタルブクロの淡い輝きを背に小首をかしげ笑うその姿は、実に魅惑的みわくてきであった。

 慎太郎は笑うしかない。

 口周りがやけに温かく感じて、さとられないように、あごのあたりに手の甲を押し付けると、少しばかり伸びたひげがざらざらとしていて、それが今という時間の現実リアルさを一層高め、自分の中をめぐる血流が増していくのを認識せざるを得なかった。


 と、その時だった。


 強い悪寒おかんが全身を駆け巡り、ぐらり、と視界がゆがむと、すすべなく前のめりに倒れ込む。

 すんでのところでに支えられ、地面に激突するのは避けられたが、ついさっきまで温かかったはずの身体が、今はとにかく冷たい。

 冷たい海の中でもがいているかのように、熱が急速に奪われていく。

 支えてもらっている身体の、ほんの少しの体温を頼りにそのにすがり付く。

 視界は夜より一段と暗く、さっきまで楽しく話をしていたはずの温もりの主の名前すら、何故か出てこない。


 怖い。


 失うことが、思い出せないことが、奪われることが。

 こんなにも絶対に君のことだけは忘れないと、ちかったはずなのに。

 耳鳴りが強くなる。

 あの子と違う声が聞こえてくる。

 私は、貴方は、僕は、

 キミは──。

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