第一髪 慎太郎 という男の 人となり

 四十六歳。

 人生も平均寿命の折り返しを越え、たび重なる社会の荒波と不条理に耐えに耐え、何とかここまでやって来た男の名前は、長友慎太郎といった。

 彼に対する周りの評価は、一言でいうと、無難ぶなんでうだつの上がらない男、である。

 中肉中背ちゅうにくちゅうぜい眼鏡めがね有。二十七歳で結婚しており、十六歳になる一児の娘の父だ。

 もはや壮年に近い年齢になるにもかかわらず、太らずに済んでいるのは、特段体型に気を使っているから、というわけではない。

 かせぎがいつまでたっても増えないせいで、彼に与えられるおかずや嗜好品しこうひんが常に少ないからであろう。

 それに、彼の家族内での地位はけして高くはない。

 妻が現役バリバリの看護師として働いており、慎太郎より給料は多いからだ。

 しかも、夜勤が多いせいで、土日が休みというような一般的な企業の就業形態に当てはまらない。従って、家事についても慎太郎の役割は大きい。

 ただ、洗濯に関してだけは服に触る、また一緒に洗濯されるのを娘が極端に嫌う年頃になってきたため、お役御免やくごめんとなっている。

 

 以上、これが長友慎太郎という男である。

 その他、これといった特徴はない。……というわけでもない。

 一つだけ。

 彼には誰もが視線を向けるたぐいまれな身体的特徴が一つだけ、ある。


「おはようございます、室長! 今日もハゲ散らかってますねー!」


 出社した事務員の女性が部屋の扉を開けるや否や、満面の笑顔で挨拶をする。

 慎太郎も「今日はなかなかポジショニングが難しくてね、ははは」と軽い感じで返す。

 が、内心は自分自身の言葉にすら返す刀で斬られる形で地味に傷ついている。


 そう、彼の最大の特徴はその頭部にある。


 ふわふわと辛うじて残る前髪、それに横髪を必死にかき集め、頭頂部の薄いそれをたくみの技術でぜ、盛り立てている。

 肌色部分を出来るだけ少なくするその戦略は、各部隊メンバーのコンディションによっても変化するので、日によって好不調がある。

 ちなみに今日はというと、10月初旬にしては妙に風の強い日で、朝30分かけたセットもむなしく、会社に着く頃には見るも無残な状況になってしまっていた。

 毛量など、もうそんなに気にする年齢でもないと言われればそうなのかもしれないが、事あるごとに娘から「友達にパパを会わせたくない、その髪何とかしてよ」と言われるので、あきらめるわけにもいかないのだ。

 そもそも、20代の頃は実に豊かであった。

 肥沃ひよくな土地には黒々とした稲穂いなほつやめいてれ下がる美しい田園風景が続き、永遠の実りをもたらすと思っていた。


 それなのに。


 デスクワークを進めながら、午後に行われる会議資料の最終チェックを行う。

 これが終わったら先月から始めている新作育毛剤の塗布とふ時間だ。

 慎太郎の目はやけにぎらついていた。


     *


 午後の会議が終わり、慎太郎はそそくさと議事録をまとめていた。

 喧々諤々けんけんがくがくと意見が飛びう会議は、活気に満ち、慎太郎にとっては割と楽しい時間である。

 ただ、各メンバー、特に営業サイドの発言量が多すぎるので、書記役は非常にあわただしい。

 終わる頃には、頭頂からこめかみを伝い、あごへと勢いよくすべり落ちていく汗で、机に置いたハンカチは毎回じっとりと湿しめってしまうのだった。


「室長、お疲れ様です。お忙しいところ恐れ入ります、こちらの書類に検印を……」


 そう言って机に近づいてきたのは、この企画開発室のエースである下北沢だ。

 まだ20代半ばだというのに、仕事が早く、センスもある。

 記憶力も良く、男前だ。

 しかも、——髪まである。

 年齢の関係で部下にはなるが、もう数年もしないうちに室長になれるのではないかとうわさされる、まさに逸材いつざいだ。

 慎太郎にとってはともすればいずれ席をあらそうライバルになるのかもしれないが、彼はこの青年のことを好ましく思っていた。

 なぜならば。


「室長。こちらの資料、後でご確認下さい」

「下北沢君、これは……!」

「例のものです。まとめておきました」


 耳元でささやくと、押印を終えた書類を片手に自分のデスクに戻っていく。

 そして、彼がそっと置いた20ページにも及ぶ紙束、そのタイトルは「最先端技術を駆使した毛髪再生プロジェクト」となっていた。

 そう、慎太郎にとって、下北沢は仕事の出来る部下であり、良き理解者であった。


     *


 普段よりやや早い午後八時半に帰宅した慎太郎は、照明がつけっぱなしのリビングルームに入ると、そのままソファーに座り大きく息をつく。

 妻は今日も夜勤で家にはおらず、娘は自室にもっていて話をすることも無い。

 アプリで通話でもしているのだろうか。時折、部屋から「うぇへへへへ……!」と気味の悪い笑い声が聞こえ、若干不安を感じることもあるが、それでも家に居てくれるだけでいい。少なくとも、辛い経験をして泣いているよりかはマシだろう。

 電子レンジで温め直した自作の作り置きを一人で食べながら、これはこれで十分幸せな部類に入るのだろうな、と。

 そう、自分の想いを飲み込ませるために、慎太郎は普段飲まない酒の力を使うことにした。

 妻が冷蔵庫にストックしている缶チューハイを一本だけ拝借し、少しアルコール臭の強いそれを体内に取り入れる。

 普段全く飲まないせいで、酒の回りが早い。

 慎太郎はふらふらになりながら、リビングのソファーに倒れ込むと、寝巻きに着替えもせず、意識を闇の中へ沈みこませた。

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