表現と現実のバランス

もちやまほっぺ

第1話 無いんだけど有るもの

 下世話な話で恐縮だが、性欲が薄れたせいかアダルトビデオを見なくなった。昔はビデオに完全に没入して、女優と致していると錯覚しながら性欲を発散させつつ、生身の人間と致す強烈な快感もそれなりの頻度で得ていた。要は、セックスとオナニーは別物だったのでアダルトビデオを見ていたのだが、年を取って性欲が低下したせいか、セックス>オナニーになった。すると自然にアダルトビデオに手が伸びなくなってしまった。ビデオに没入したところで、セックスのときに生身が得る快感に勝てないのだ。

 武蔵野で作品を書こうとしたら、似たような問題にぶちあたってしまって筆が止まってしまった。

 武蔵野に個人的な体験はある。体験した事実を加工して磨いて見た目を整えることができる。小説らしくすることもできる。できるから作ってみる。そうして出来上がったものを読み直すと、だからなんなんだ、という虚しさだけ残る。書くときは夢中で没入感はあっても、読む側に身を置くと生身が得る快感が無いのだ。駄作だからじゃないのかという批判は甘受する。武蔵野での体験が平凡だから、筆力がなくて読み手を引き込めないから、というのはありうる話だ。だから、他の人の作品はどうなのか気になって仕方ない。

 そんな焦りのような気持ちで他の投稿作品を読んでみる。文章を上手に書いたな、設定を工夫したな、一見武蔵野に関係ない笑い話のような個人的体験をうまくねじ込んできたな、などそれぞれに色んなことを思う。それでも生身が得る快感はないのだ。没入して時間を忘れる楽しさもない。

 結局、武蔵野をネタに何か作るよりも、武蔵野に行って武蔵野を感じたほうが快感なのではないか。そんな表現が敗北した結論に至りそうになる。

 しかし、それでいいのかねぇ、と思う。百聞は一見にしかずは真理であるけれど、一見するには自分の中から色々と捻出しなければいけない。やる気も体力も時間もお金も色々繰り会わせてようやく現地に行ける。どうせ行くなら、行ってよかったと思いたい。現地に行く期待を高めること、行った後の効用を高く感じられるために表現は有効で、そこに表現の意義はある。具体的には、本や写真や雑誌を見て面白そうだから旅行に行くでしょう、ということだ。

 「銀河鉄道の夜」のように、表現の中にしか存在しない世界がたくさんある。そういうとき、表現が現実に優位にある。その表現を、実写映画や遊園地といった現実世界で再表現し直すことがある。それはだいたい陳腐な結果に終わることが多い。それはそうだ。現実に無いからわざわざ表現しているのだから。一部、ディズニーランドのようにうまくいっているものはあるが、それは再表現したものを現実世界用に再構築している。ジェットコースターのようなアトラクションは表現にはないし、光の装飾をほどこした夜のパレードもない。だから、うまくいく。現実世界用の快感をきちんと用意している。

 アダルトビデオは表現だ。表現だから、その設定だけではなく、実技すら真似してはいけないものだ、と言う女優が何人もいる。でもセックスは現実だ。

 武蔵野も表現だ。地理的に明確な定義はない。楢の木などで構成された森がある、夏は緑豊かで秋は紅葉で美しい、冬は風で冷たいといった埼玉から東京都下のエリアという表現だ。でも埼玉から東京都下は現実だ。

 我々は常に、この表現と現実を行き来して生きている。ゼロは無いという現実を表現している。無いものは無いゆえに表現できないはずだ。死も同じだ。それでも表現できているし、定着している。誰かの要求に表現で答えて現実で生かすことが最上級の表現だと思う。

 そして私の武蔵野は、ゼロを表現できるレベルに至っていないまま締切が来てしまうので、何とも辛い1日1日を過ごしている。

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