***** 15 ***** END
ディトラスがルマーシ子爵の屋敷へ行ったのは、アネイシアの都合とは別の理由だった。
サロンを主催する子爵からの招待状をもっていたからだが、どちらかといえばいまの彼にとっては鬼門といえる場所である。
それでも訪れる気になったのは、直前にニケラツィニ侯爵と会ったからだ。
アネイシアの過去に確信をもってから、ディトラスは父親に話をきく必要を感じていた。
早朝から領地へ馬を走らせ本邸へ戻った息子を、侯爵は驚きながら迎えいれた。
「アネイシアのことだと?」
「そうです。父上が俺の婚姻相手に彼女を選んだ理由はなんだったんですか」
厳しい表情のディトラスから出たのが意外な質問だったため、ニケラツィニ侯爵はややあっけにとられた。
たしかに事情があるとは言ったが、自らの伴侶にさほどの関心もなさそうにしていた息子から、いまになってそんなことを問われるとは思わなかった。
「アネイシアに不都合でもあったのか」
「彼女にはなんの問題もありません。ただ知っておくべきだと考えただけです。そもそも、彼女は本当にバシリオス・レオニスの実子なんですか」
「あの髪だから疑っているのか? だがレオニス家の特徴といっても例外はあるだろう。父親に似たところがひとつもない容姿も、母親譲りなら幸いなことだ」
「しかしハイオーニア伯爵に、亡くなった二人の令嬢のほかに娘がいたとはまったく知られていなかった。十七になって突然社交界へ現れれば、驚かれるのも当然です」
「伯爵が一族の外見を自慢にしているのは有名な話だ。とすれば、あの娘を世間の目に触れさせたくないと考えるのも予想の範囲だろう。それにわしは神殿に金をつかませて、出生届を直接確認したのだ。間違いなくバシリオス・レオニスと妻ハーモニアの三女となっていて、医師の署名もあった。なぜか、届け出が誕生の六年もあとになっていたがな。だが真相はこの際どうでもいいことだ。大事なのは、形式として正しく整っているという事実なのだからな」
父親の言葉にディトラスは息をのんだ。
それは出生届が六年もたってから提出されたという一点に対してだった。
アンが屋敷を追いだされたのは六歳のとき、彼女の母親が娘を手離したのも、その後いくらもたたないうちだったはずだ。
父親であるハイオーニア伯爵がひきとり、実子として認知したのではないだろうか。
ヴァネッサ・ロッシが、アンの母親らしき女のモデルを貴族の愛人と推測していたことからも、つじつまが合う。
しかし、それならアンの豊かな黒髪はどこに失われてしまったというのか。
それに、人が変わったかのようなとりとめのない陰鬱さに、昔の面影はみあたらなかった。
「――とはいえ、わしが見出さなければ、アネイシアはいずれ神殿に預けられ一生を過ごすことになっただろう」
ニケラツィニ侯爵は同情するでもなく淡々と告げた。
彼にとっては、ハイオーニア伯爵はもとよりアネイシアにもなんら思い入れはなく、求める条件を満たしたため契約相手に選んだというだけのことでしかない。
「父上の狙いはいったいなんだったんですか」
ディトラスの疑惑に侯爵は意味ありげに笑んだ。
「準備が整ってから伝えるつもりだったのだがな……地権だ」
「地権?」
「ハイオーニア伯爵は徹頭徹尾金に縁のない人間だが、アネイシア・レオニスは父親に相続権のない地権をもっている。わしの目的はおまえをその土地の共同権利者にするか、彼女から権利書を譲りうけることだ」
「いまさらロウガーニー家の領地を増やす必要はないでしょう。これからの時代、いたずらに肥大した領地を運営するだけでは効率的に資産を増やせないといつも言っているのは父上です」
「アネイシアのもつ土地はな、農民どころか人の手もろくに入っていない荒れ地だ。だが、その地下には宝が眠っている」
「まさか」
ディトラスはややあって父の意図に気づいた。
「そうとも、石炭だ。周辺地域の試掘調査から、あたり一帯の広範囲にわたって莫大な量の石炭が見込めるのだ。ハイオーニア伯爵が荒野の価値に気づく前に娘を確保する必要があったため、結婚を急いだ。おまえの出征と重なったのはいい口実になったな。
伯爵に援助した借金の肩代わりなど、これからあの土地が生む利益に比べればはした金と同じだ」
金塊に変貌するかもしれないとはいえ、長年見向きもされなかった辺境地の所有者がアネイシアだとニケラツィニ侯爵がつきとめたのは、恐るべきビジネス手腕だった。
そしてまったく合法的に、なかばその権利を手にしている。
それにしても、ハイオーニア伯爵が把握していないとすれば母親からうけ継いだものと考えるべきだが、夫人は健在で自身の領地にひきこもっていると聞く。
このたびの結婚にあたって一度も姿をみせなかったことから、母娘の仲が良いとは思えないため、一見無価値の地権だけを生前贈与する理由も不明だった。
しかし諸々の事情よりも、常に周囲の思惑によって、おそらく自分の意思と関係なく駒のように使われるアネイシアを思うと、ディトラスはいい気分にはとうていなれなかった。
貴族の娘である以上、親の都合に左右されるのはどこでも同じだが、だからといって彼女の身上に胸が痛まないわけではない。
ましてやアネイシアがレオニス家の人間となってから現在までの空白の時間になにがあったのか、その激変の理由を彼は知らなかった。
ふと、アネイシアの不審な行動はこの地権に関係しているのではないかと、ディトラスは思いついた。
一年近く前にニケラツィニ侯爵が荒れ地の価値に気づいたのなら、それを知るのがいつまでも彼だけのはずがない。
鼻の利く者たちは必ず次々に現れる。
それはアネイシアを危険にさらすことにならないだろうか。
ディトラスは鳥肌がたつような嫌な直感に奥歯をかみしめた。
自分の父ながら、親としての情をほとんど感じない事実をあらためてまのあたりにしながら、彼はもはや用のなくなった屋敷を足早に出た――いや、親への情を初めに失ったのは、幼い少女へむごい折檻を与えたと聞いたあの日だったかもしれない。
――ルマーシ子爵邸はいつも人の出入りが多くにぎわっている。
子爵はディトラスをみつけるといつになくそっけなく、というより儀礼的な態度であいさつをした。
こちらの反応を気にするふうにもみえる。
ディトラスは何食わぬ顔で「妻がよくこちらへ伺うそうですね」と話題にあげた。
子爵のふるまいはあからさまに不自然で、そもそもアネイシアがここへ頻繁にかよっているなら、主人である彼が把握していないはずがない。
はたしてディトラスも事情を承知していると勘違いしたらしい子爵は、見る間に表情を明るくしてうなずいた。
「ギオス伯爵もご存じでしたか。もしや、我々は同好の士というわけですかな? あなたの夫人もレイモンをお気に召したそうで……」
「レイモン? 明るい金髪の紳士ですか」
遮るようにディトラスが尋ねたので、ルマーシ子爵は居心地悪げにせきばらいをしながら肯定した。
「今日、彼はここに来ていますか」
「来ているもなにも、先刻夫人と会っていたところですよ。今日の面会は短い時間だったようですが、『あちら』のサロンで」
子爵が言いながら指し示したのと同時に、ディトラスは「失礼」と断って彼の前から身をひるがえした。
あまりに険しい声と素早い行動に、子爵は呆然として青年を見送ったのだった。
子爵邸の意外に広く奥深い廊下を歩きながら、ディトラスは衝動的な興奮と奇妙に頭の芯が冷えている自分を同時に感じる。
つい数時間前にアネイシアが若い男と逢瀬を交わしていたと知って、暴力的な感情がふきだしたのは事実だ。
しかし、先に父親から聞かされた話も脳裏の大きな部分を占めており、アネイシアの深青の瞳を思いだした。
彼女がなにかに苦しんでいるのはたしかだ。
ルマーシ子爵のさきほどの不可解な言葉も、頭のなかをぐるぐるとまわっている。
ふいに、ディトラスが足をとめたのは、脇の小部屋のドアがひらいていたからだった。
それだけではなく、なかに男がいて、目立つ金髪が目に入ったのである。
ひきよせられるように凝視すると、薄灰色の目が先にこちらを見つめていた。
二十代後半くらいの外見とこぎれいな恰好。
すべて、友人が教えてくれた例の噂の紳士と合致する。
しかも舞台はルマーシ子爵の屋敷で、疑う余地はまったくない。
一瞬、男は視線をそらして逃げようとした。
しかし出入り口はディトラスが立つ扉だけで、ごく狭い小部屋にはほかに隠れる場所もない。
男は観念したのか身なりを整えると、逃げようとしたそぶりなどおくびにもださず紳士然としてディトラスに近づいた。
「レイモンか?」
ディトラスの不躾な問いに、男は意表をつかれた顔をしたが、やがて薄ら笑いをうかべて礼をした。
「いかにも、ぼくはレイモン・アンディーノと申します。面識はありませんが、ギオス伯爵のご高名はよくうかがっていますよ」
アンディーノという家名をディトラスはかろうじて知っていた。
特筆すべき点もない子爵家だが、下の兄弟が身持ちの悪さで一族の厄介者になっているというゴシップのネタを、たびたび噂好きの貴族たちに提供していたからだ。
おそらく目の前の男が本人なのだろう。
「先ほどアネイシアと会っていたというのは本当か」
「……ええ、そうです。伯爵がご承知とは驚きました。まさか彼女が話したのですか」
「アネイシアはなにも知らない。なにが目的で彼女に近づいたのか答えてもらおう」
二人のあいだの具体的な関係をディトラスが知らないのだとわかり、レイモンは優位に立ったつもりになったのだろう、笑みをうかべたままシガーをとりだし火をつけると、じらすのにじゅうぶんな間をとってから口をひらいた。
「
「五年前から彼女とつきあっていると?」
ディトラスの声が低くなったのに男は気づかなかった。
「ご夫君であるあなたが心配なさるほどの重い関係ではありません。
言い終わるが早いか、ディトラスは男の肩を押して壁ぎわへ追いつめると、衣の胸もとをつかんでひきよせた。
「アネイシアとの仲がどうだろうが、おまえが介入する余地はない。もし、まだこんなふざけた真似を続けるというなら、社会的に抹殺してやる」
容赦ない冷酷な脅しは、レイモンを瞬時に窮地に立たせた。
ディトラスの言葉がはったりではなく、実際にそれが可能な力があるからだった。
レイモンもロウガーニー家の権勢がどれほどのものか知らないほど莫迦ではない。
しかもディトラスは軍幹部の人間で、それこそ暗部の仕事は得意分野といえる。
あっという間に破滅の危機におちいったレイモンは、懸命に頭を働かせて身の安全を確保するすべをみつけなければならなくなった。
「わっ、わかりました。ギオス伯爵がそうおっしゃるなら、もちろん、もちろんぼくは身を引きますとも! 夫人の身体に興味をもったのは、昔と見違えるほど美しくなっていたからで……そ、そうだ! もともと夫人に近づいたのは、すばらしい儲け話があったからなんです。どうですか、伯爵も一枚かめば信じられないくらいの財を山分けできますよ」
ディトラスは猿のようにかしましく不快極まりない言葉を吐き続ける男の頭をたたき割りたい衝動にかられたが、最後の気になる言は聞きのがさなかった。
「儲け話だと」
「そ、そうです! 彼女は金の卵を産む土地の権利書をもっているはずですから」
「なぜ、それをおまえが知っているんだ」
厳しい問いに、レイモンは目を泳がせる。
金儲けの話をもちかければ当然のってくるだろう、あわよくば交換条件として今回の件を不問にできるはずだととっさに計算していた彼は、話の方向が意図しないほうへ進んであせりを隠せなかった。
どれほど資産家だろうと、金に興味を示さない人間がいるなどとは想像できないのだった。
「ええと、アンディーノ家の主筋はカラミア侯爵ドゥーカス家で、彼女が離縁されたときに土地を譲渡するという決定を一族の者が皆了承したので……」
「……アネイシアがカラミア侯爵と婚姻していたというのか」
ディトラスの射殺すようなまなざしを向けられたレイモンは慌てて口をつぐんだ。
この事実はアネイシアへの脅迫の口実であり、切り札である。
ディトラスの威にのまれて容易に白状した自らをレイモンが呪いたくなる前に、つかまれた胸もとがいっそう締めあげられる苦しさでそれどころではなくなった。
カラミア侯爵はほんの数年前に代替わりしている。
死んだ先代がとにかく悪名高い人物だというのは、ディトラスもよく知るところだった。
ドゥーカス家は伝統ある家門で没落の噂もない富裕貴族だが、当主の人格は常軌を逸しており、腰ぎんちゃくの貴族たちですら逃げだすほどだったのである。
本人の主催する裏サロンでは、魔術の儀式ともみまごう禍々しい宴が夜な夜なくりひろげられ、特殊な嗜好を共にする者たちがつどっていたという。
使用人の出入りも激しいため、悪評は尾びれをつけて広くささやかれた。
現当主は至極まともな人物だが、授爵前から既婚者であり、アネイシアは先代のもとへ嫁いだと考えるのが自然だ。
しかし、それではあまりにも年齢差がひらきすぎていてつりあいがとれない。
そのうえ、仮に先代が死去するまで添い遂げたとしても、アネイシアはおそらく十五歳にもなっていない。
老カラミア侯爵がそれまでにも何人もの妻を自ら死に追いやったというのは、周知の事実だった。
ディトラスはぞっとして、つかんだ衣に力をこめる。
目の前が暗くなるほどの怒りを覚えたのは初めてだった。
アネイシア自身が望んだはずがない。
すべてはハイオーニア伯爵の身勝手な思惑の手段でしかなかったのは明白だ。
それでも彼女が一身にそれらの責任を背負ってひた隠しにしてきたのは、ドゥーカス家でも父親のためでもなく、ただディトラスのためだったといまは信じられる。
「レイモン・アンディーノ、おまえがアネイシアにしたことへの報いは必ずうけさせる。彼女の身上を不用意にほかへ漏らせばどうなるか、わからないほど愚かではないだろう。身辺整理をすませて処罰を待っていろ」
ディトラスは半分以上灰になってしまった短いシガーを男がくわえていた口もとからとりあげ灰を落とすと、火のついた先端を男の目の先までゆっくりと近づけた。
眼球で熱を感じるほど間近にかざされたレイモンは、まばたきもできず汗をうかべて硬直する。
彼はやがて、まつげに触れるか触れないかの距離まで近づけられたシガーをレイモンの耳の横すれすれの壁におしつぶすと、火に触れて焦げた髪からただよう鼻をつくにおいを残したままきびすをかえす。
レイモンは恐怖と混乱でぶるぶると身体を震わせた。
ディトラスが自分の破滅を宣告し、それが戯言ではないことを冷酷に示したのである。
一族から、いや社交界から追放されれば、あまりにも惨めな末路しかない。
どうでもいいひとりの女に手をだしただけで、これほどの仕打ちをうけるなど莫迦げていると、頭のなかで声がした。
そうだ、無価値な女を有効に使ってやろうとしただけ、こんな若造からこけにされるいわれはないはずなのだ。
ディトラス・ロウガーニーさえいなければ、なんの問題もなくこれまで通りの日常が戻ってくる。
レイモンは震えのとまらない手を懐におしこんで、内ポケットから短銃をつかみだした。
衣のラインに響かないように小さく薄くつくられたごく装飾品に近い護身銃だが、これだけ近距離なら人間ひとりくらい始末できるはずだ。
「待て、ギオス伯爵……!」
かすれた叫び声にディトラスがふりかえった瞬間、レイモンの手から火花と破裂音が飛び散った。
淑女としての作法にかまう余裕もなく、ドレスのすそを乱してかけつけたアネイシアは、ディトラスがレイモンに撃たれるのをまのあたりにして、悲鳴をあげることすらできなかった。
頭が真っ白になって反射的に短剣を手にすると、鞘からひきぬくあいだにレイモンに走りより、銃をもつ手を一閃した。
手首から勢いよく鮮血が散る。
アネイシアに劣らず蒼白な顔をした男は「あぁっ」と小さく声を漏らして手をおさえると、後ろによろめいて膝をついた。
「ディトラス様!」
アネイシアはもはやなにも目に入らずディトラスのもとにかけより、彼の腕をとった。
「アネイシア、なぜここにきみが」
困惑するディトラスの二の腕が血に染まっている。
衣の布が焦げ、腕の肉がいくらか銃弾にもっていかれたようだった。
命に別条がないのを確認すると、アネイシアはこわばる指先に自ら叱咤しながらハンカチで傷口をしばる。
「ごめんなさい、あなたをこんな目に合わせるなんて……」
ディトラスを裏切った責はすべて彼女自身がとるはずで、彼にまで類がおよぶことなどかけらも望まなかったのに。
「お、おまえが、おまえたちがいなければ」
うめくような声に、アネイシアは我にかえって顔をあげた。
しりもちをついたままのレイモンが、血まみれの手で銃をこちらにかまえている。
震えなのか痙攣をおこしているのかわからないほど小刻みに揺れる両手は、なにかの拍子に引き金をひいてもおかしくない。
とっさにディトラスの前に立ったアネイシアを、彼は逆にひきよせて自らの背後にかばった。
両者のにらみ合いが続くかと思われたとき、ルマーシ子爵と使用人たちがようやくかけつけてきた。
屋敷にかけこんできたアネイシアの様子にくわえ、銃声とただならぬ声に気づいたらしかった。
子爵らの騒ぎに気をとられた瞬間、レイモンの銃が再び乾いた音を発した。
庭園を通って部屋へ吹きこんでくる風は、緑や花の匂いも一緒に運んでくる。
さわやかな空気が頬をかすめるたびにレースのカーテンが軽やかに波うつのを、アネイシアは寝台から飽きずにながめていた。
そうしているうちに、ひかえめなノックの音がきこえ、返事をするとディトラスが現れた。
マリナが一緒についてこないのは、きっと二人きりにさせようと気遣ったのだろう。
アネイシアをじっと見て、白い手をとったディトラスは彼女の頬にキスをすると、手をとったまま寝台の横の椅子に座った。
「調子はよさそうだな。顔色が明るい」
「ええ、体調はもう、もとに戻ったと思います」
「ベッドから出るのは医師の許可がおりてからだからな」
心配性を発揮した彼は、アネイシアの自己申告をさっぱり信用してくれない。
視線をそらさず見つめてくるようになったディトラスを、彼女は恥ずかしいような懐かしいような心地で見つめかえした。
いまはゆるく三つ編みにした銀の髪に何度も触れて、ディトラスは寝台のふちに座りなおすと、もう一度アネイシアに口づけた。
それはようやく手にした宝ものを、大切に触れて自分のものだと確認する所作に似ていた。
――正気を失ったレイモン・アンディーノが放った二発目の銃弾は、幸い誰も傷つけることなく、あさっての方向へ跳んで天井近くの壁にめりこんだ。
銃の携帯は違法ではないが、決闘でもあるまいに屋内で使用するのは、さすがに常識を逸脱した行為といわざるを得ない。
しかも狙ったのはニケラツィニ侯爵の子息である。
レイモンはただちに警吏に捕らえられ、ルマーシ子爵も拘束される事態となった。
現在も取り調べは続いているが、ディトラスが手をくだすまでもなく、厳しい処罰はまぬがれないだろう。
現場にいたアネイシアは、極度の緊張と発砲のショックで意識を失ったのだった。
目覚めてから真っ先に気になったのは、ディトラスがうけた銃弾のことだ。
とり乱して傷の具合を尋ねると、彼は怪我ではない別種の痛みをこらえるように、それでも微笑んで大丈夫だと答えた。
幾日か過ぎてアネイシアの体調がおちついてから、ようやくディトラスは事件のことに触れたのである。
「あの男ときみのあいだになにがあったのか、きみの口から聞きたい」
ずっと恐れていた言葉に、アネイシアはきつく目をとじた。
少しでも気を抜けば身体が震えだしそうだった。
ディトラスはレイモンから事情を聞かされている。
それは当然ディトラスが知る権利のある事実に違いないが、彼がそのことにどんな感情をもっているのかと考えるのは恐怖だった。
アネイシアは声がかすれないよう深く呼吸をして、ようやく口をひらく。
「ディトラス様に、謝罪しなければならないことがいくつもあります。それはすべて……私に原因があります。
この数か月、私が不審な行動をくりかえしていたのはお気づきだったでしょう。それはレイモン・アンディーノと会うためでした。彼は……最初から私の金銭を得ることを目的にしていたのだと思います。なぜ、さしたる財産もない私に狙いを定めたのかはわかりませんが、脅しになる材料があったというだけの理由かもしれません」
「なにを脅迫されていたんだ」
「……私が、初婚ではないことがあきらかになれば、ロウガーニー家に良い影響を与えないだろう、と……」
アネイシアはできるかぎり婉曲に言ったつもりだったが、ディトラスはすぐに話の本意に気づいたようだった。
「つまり、俺の経歴に傷がつくと?」
「……はい。私が……私が結婚していたのは、事実です。ニケラツィニ侯爵はご存じのようでしたが、秘密婚だったため外部には漏れないとお考えだったのかもしれません」
ディトラスはしばらく言葉を失った。
父が知っていながらあえて彼に教えなかったのは、たんに些末な過去だと気にもしなかったからだろう、しかしわずか十二歳の貴族令嬢が秘密婚などという特殊な婚姻を結ぶのに、健全な理由であるわけがない。
しかも相手はあの老カラミア侯爵である。
「アネイシア、嫌なら答えなくていい。きみの髪は
彼女の外見のあまりの変貌が、ディトラスはずっと疑問だった。
アネイシアは目をとじると小刻みに唇を震わせはじめた。
顔は紙のように白い。
あまりの痛々しさに、ディトラスが無神経な言動を詫びようとすると、彼女は弱々しく首をふり、それでもまぶたをあげてはっきりとディトラスを見た。
「父上への資金援助を条件に侯爵家へ嫁ぐことは、前もって決まっていました。結婚して一年たたないうちに私は日常生活を送るのが困難になり、多分その時期に
彼女の言葉は淡々としていながら壮絶な内容だったが、それですら事実を言い表すほどの生々しさではなかっただろう。
老カラミア侯爵の悪辣な趣味はディトラスも何度も耳にしている。
正気を保てないほどのことが、自分の容貌すらわからなくなるようなことが、二年にわたって彼女を殺し続けたのだ。
「……レイモン・アンディーノは私から金銭を脅しとるつもりだったはずです。けれどなぜか、彼は私を……私は、あなたへの裏切りを重ねています」
アネイシアは「ごめんなさい」と消えそうな声で言った。
「どうか、離縁してください。レイモンが取り調べですべてを話せば、いずれ私のことも知られるようになるでしょう。そうなる前に……もとよりこの結婚は、ロウガーニー家にとってなんの利もないのですから」
アネイシアが自分のもつ権利書にどれほどの価値があるのか、さらにいえばレイモンの目的も根は同じだという事情をなにも知らないのだと、ディトラスはそのとき気づいた。
彼女の膝のうえにおかれた手は、爪がくいこんで傷つけそうなほどきつく握りしめられている。
なだめるようにディトラスが手を重ねると、ひどく汗ばんでいるのに氷のように冷たかった。
「アネイシア、最後に……もっとも知りたいのはひとつだけだ。俺が渡したペンダントは、きみのものか」
アネイシアが瞠目してディトラスを見た。
驚きと怯えのようなものが、そこに入り混じっている。
本当はディトラスにはわかっていた。
レイモンと対峙したときアネイシアが抜いた短剣を、いまは彼が保管しているからだ。
丁寧に手入れされてきたのだろう剣は刃先鋭く、はめこまれた菫青石の輝きはそのままに全体は角がとれて丸みをおびている。
ディトラスの記憶のとおり柄には懐かしい年号と、DからAへ、という刻印が残っていた。
アネイシアは顔をそむけ、ひどくぎこちなくうなずいた。
まるで断罪を待つ虜囚のような姿は、彼女が過去を負の監獄として、そこからいまだのがれられないままだという事実を示していた。
ディトラスはようやく真実をさがしあてた気がして、細い肩をひきよせ胸に抱いた。
「
「ディトラス様」
アネイシアはとうとうこらえきれず涙をあふれさせた。
「私のせいで、あなたに消えない傷を負わせてしまった。今回のことだって、あなたにはなんの責任もなかったのに。謝罪して許されることではないとわかっています。でも……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
おえつ混じりにくりかえした悲鳴のような謝罪は、涙とともにディトラスの衣に染みこんでいった。
感情がおさえられなくなってしまったアネイシアを包みこんだまま、彼女の頭にキスをする。
これまでのなによりも、十一年前の事件のことが彼女を苛んでいたのだとわかったからだ。
「きみのせいなんかじゃない。二度も俺の命を助けてくれたんだから」
ディトラスはどうしようもない気持ちが腹の底からつきあげてきて、アネイシアの頬を両手で包むとそっと上向かせて見つめた。
「アン、やっときみをみつけたんだ。絶対に離縁などさせない。愛している」
涙に濡れたままの、満天の夜空のような瞳が大きくひらかれてディトラスを映した。
衝撃が過ぎ去ると、再びその目から涙があふれだす。
それは、先ほどとは違う感情のはずだった。
アネイシアはなにも言わず、もう一度広く温かな胸に顔をうずめたが、ディトラスにはそれでじゅうぶんだった。
――「このロケットは、誰にでもなかを見られないように細工がしてあるのです」
手にしたペンダントからチェーンを抜きとりながら、アネイシアが言った。
普通ロケットペンダントは小さな蝶番がついており、本のようにひらくことができる。
そしてなかに大切なものや姿絵をいれておいたりするが、アネイシアのペンダントのチャームはいかにもそれらしい形をしているのに、あけられるようにはなっていないのだった。
ディトラスがそのことを尋ねてみると、彼女は秘密をうちあけるようにそっと教えてくれた。
鎖をはずせば、チャームは指の腹でおさえながらスライドできるつくりになっている。
「ただの平民の子供がこんなものをもっていると知られれば大変ですから、父が特別に細工師につくらせたのでしょう」
二つにわかれた楕円のチャームの内側には、ハイオーニア伯爵家の紋章が刻まれている。
常に金の工面に追われる暮らしながら、こんなところに粋なこだわりをみせる伯爵に、ディトラスはなかばあきれながらも奇妙な感心を覚えて苦笑した。
ペンダントをもとに戻しながらアネイシアも静かに笑っていたが、その表情は子供のころと変わらず柔らかいのに、ぬぐいきれない影をまとってもいた。
しかしディトラスはもう、以前感じていた苛立ちに心を乱されることはない。
昔の記憶とは違う、淡く憂色を帯びた彼女の雰囲気は、彼女自身の人生そのものを内包しているのだとわかったからだ。
いくら消し去ろうとしても、アネイシアの身におきたすべてのできごとは、なくなりはしない。
その事実をうけいれたとき、ディトラスはいま目の前にいるアネイシアをただ愛しく思ったのだった。
「起きあがれるようになったら、一緒にヴァネッサのアトリエへ行こう。実はあそこに、君が驚く絵がある」
「まあ、なんでしょうか、ディトラス様」
「それは行ってからだ。それよりも」
ディトラスは言葉を切って、片眉をあげた。
「きみはいつになったら、以前のように俺をディトラスと呼んでくれるんだ」
「それは……」
動揺したアネイシアは目を伏せてしまった。
頬がかすかに赤く色づいている。
互いの過去があきらかになってからというもの、アネイシアのディトラスへの態度は、節々に子供のころの癖が出てしまっていた。
指摘するたびに慌てた反応をみせるので、どうやら無意識らしい。
ディトラスがからかうようにうながすと、アネイシアは彼の耳もとへ顔を寄せて、そっと名前をささやいた。
END
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