***** 14 *****
レイモン・アンディーノから渡された、手のなかにおさまるほどの小さな硝子瓶を、アネイシアは不審げに見つめた。
「粉末ではないのですか」
「あれは『ハーブ』を砕いただけのもので不純物が多い。こちらが薬品処理をした正真正銘の上物さ。値も段違いだけれどね」
どことなく得意げに説明するレイモンに数枚の紙幣をさしだしたアネイシアは、瓶をふって中身があるのを確かめると、ハンカチで包んでバッグへ入れた。
彼の言うとおり安くない買いものだ。
支払いのために、昔から持っていた古い宝飾品や書道具を換金しなければならなかった。
結婚にあたって父が見栄と対面を保つために用意した品もいくつかはあったが、それに限らず最近所有に加わったものはマリナがすべて把握しているため、なくなるとすぐにわかるし、場合によっては彼女に責任がおよぶので手をつけられなかったのである。
「いま使ってみますか」
紙幣の枚数を二度かぞえて懐へしまったレイモンは期待のこもった様子で言ったが、アネイシアはとりあわず座を立った。
用がすめば一刻も早く立ち去りたい場所でしかない。
「あなたがいては、良い夢も悪夢になりそうですから」
「これは手厳しい。けれど柳眉をよせて不快をあからさまにしていてさえ、あなたは美しいですよ」
もはや男の軽口には答えず、アネイシアは足早に部屋を後にした。
屋敷へ戻ってみると、ディトラスは今日もいないようだ。
もう数日顔をあわせていない。
このところ、ときどき一緒にお茶の時間をすごしたり会話がはずむこともあったので、少しさびしさを覚えた。
しかし、いまはひとりでよかったのかもしれない。
自室に入ると、アネイシアは慎重に小瓶をバッグからとりだし、卓の引き出しに置いた。
そこには以前レイモンから渡された『ハーブ』の粉の包みもしまってある。
交渉の手札はそろったが、これらが本当に禁忌薬なのか調べる必要があった。
万一偽物をつかまされていて、それを理由に言い逃れされたら、目もあてられない。
かといってアネイシア自身がためすわけにもいかず、依頼できるつてがないかと思案していると、マリナがやってきた。
「おかえりなさいませ」
「少し時間が早いけれど、お茶を用意してくれる?」
「はい。……あの、奥様」
いつになくあらたまった口調で女中が呼びかけるのに、アネイシアはそっと引き出しをとじて目を向けた。
「どうしたの」
「奥様の落としものを旦那様からお預かりしたのですが、ご覧になっていただけますか」
「落としもの?」
なにも紛失した覚えのないアネイシアは、不思議に思いながら布の包みをうけとった。
「数日前に渡されていたのですが、奥様にお伝えする機会がなくて……遅くなってしまい申しわけありません」
「そんなにあらたまって言うほどのものはなくしていないと思うけれど、マリナがディトラスからうけとったの?」
妙に歯切れの悪い女中の態度も気になったが、基本的にアネイシアにつきっきりでディトラスとはほとんど接点のない彼女が落としものを預かったというのが、常にないことだった。
直接アネイシアへ返さなかったのはなぜなのだろう。
「……じつは奥様にご相談せず、旦那様へお願いにあがりました。奥様の体調がこれ以上悪化しないよう、お気遣いいただきたいと」
マリナの告白にアネイシアは驚いて、布の包みを落としそうになった。
女主を大事に思ってくれているこの女中が、ディトラスを敵対視とまではいわなくても、さっぱり信用していないのをよく知っていたからだ。
彼女はアネイシアがレオニス家にいた当時から、周囲に味方と呼べる存在がいないのを身をもって感じており、身近な人間に対する目が厳しいのである。
現在その最たる者がディトラスであるはずだが、アネイシアの身を案じて自ら彼に頼んだというのは驚嘆すべきことだった。
「勝手をして申しありません。ですが、奥様のお身体が心配で。奥様があれほど信頼しているとおっしゃった旦那様を、わたしも信じてみようと思ったのです」
マリナが出すぎた真似をしたとは思わなかった。
アネイシアが密かに無理を重ね続けているのを、彼女はずっと察していたのである。
そして、ディトラスを信頼してくれたことを感謝しなければならなかった。
「あなたに心配をかけてばかりでごめんなさい。どんな結果になるかわからないけれど、きっと近いうちにすべて終わるでしょう」
「奥様……いつかわたしにも話してくださいますよね」
なんらかの事情があるのは気づいているらしいマリナに、アネイシアは答えるべき言葉をもたなかった。
レイモン・アンディーノとの交渉がうまくいってもいかなくても、いずれ来たるべきディトラスとの離縁はまぬがれないだろう。
そのとき負わせてしまう彼女の心労を思うと、無理やりロウガーニー家へ連れてきてしまった負い目がアネイシアにのしかかる。
誰のせいでもない――ただ、自分が嫁いできてしまったということ以外は。
マリナを見ているのがつらくなり、アネイシアは手のなかに目をおとした。
包みをひらいてみると、純銀のロケットペンダントが鋭い光を反射させた。
肌がくすまないようひんぱんに磨かれているのがわかる。
ふくらみのある楕円のチャームには細かな植物の意匠が彫金されているが、見覚えがない――いや、違う。
アネイシアは息をするのも忘れて、その輝きに吸いよせられた。
『これは普通のロケットとはあけかたが違うのよ』と母が言った。
『お父さまの血筋だと証明するものだから決してなくさないで、肌身離さずもっていなさい』
『綺麗なペンダントだな』少年が首もとをのぞきこんで笑った。
『これがあれば、きっとお屋敷の人たちがみつけてくれます。どうか、どうか死なないで――ディトラス様』
震える両手で顔を覆うと、アネイシアはそのまま膝から崩れおちた。
過去の記憶の奔流がおしよせてくる。
「ディトラス様……!」
彼はあの忌まわしい事件のあと、十年以上もペンダントを手もとにおいていたのだろうか。
いったいいつからアネイシアが持ち主だと気づいていたのか、彼にとって死の象徴ともいうべきペンダントと同様、彼女自身も災いを招く忌み人と映ったに違いない。
いま、これを返された意味を考えると、肯定的な意図はわずかもくみとれなかった。
「奥様、アネイシア様、どうなさいましたか」
マリナが慌てて身体を支える。
「そのペンダントは……」
「私、私は、ディトラス様に謝らなければ」
女中の声も耳に入っていないように、アネイシアはつぶやいた。
指先まで冷たくなった手から緩慢にあげた顔は、先ほどの悲痛な声とは裏腹に涙のあとすらなく表情を失っている。
「マリナ、ディトラス様はどこへでかけられたの」
「い、いえ、わたしはうかがっておりません」
アネイシアは困惑しきりの女中の腕のなかからぬけだし、おぼつかない足どりで部屋を出た。
騒ぎを聞きつけたのか、廊下には執事がやってきたところだった。
走るような無作法な真似はしないが、急いできたのがみてとれる彼が口をひらく前に、アネイシアは詰めよって言った。
「ディトラス様はどちらへおでかけでしょうか」
常になく思いつめた様子の彼女に目を見張りながらも、執事は静かに答える。
「旦那様は先刻、ルマーシ子爵のお屋敷へお出かけになると知らせがありました」
「ルマーシ子爵……!?」
叫び声をあげて、アネイシアははっと我にかえった。
「ディトラスひとりで向かわれたのですか」
「さようでございます」
全身から血の気が引くのがわかった。
子爵邸にはまだレイモン・アンディーノがいるはずだ。
もし偶然はちあわせたらという危惧より、ディトラスは確信があってそこへ向かったのだと直感した。
レイモンから醜聞をきかされる彼の心中を思うと耐えられない。
せめて自分の言葉ですべてを告白し、懺悔したかった。
それが、最低限のけじめだと思うからだ。
「行かなければ」
アネイシアは真っ青な顔のまま駆けだして、今度こそ執事を驚かせた。
「奥様」
呼び声を背後に聞きながら、彼女は銀のペンダントをつかんだまま屋敷をとびだしていった。
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