***** 13 *****
ディトラスがヴァネッサのアトリエをおとずれたのは久しぶりだった。
彼女にぜひ絵を制作してほしいという客人を紹介するため案内したのである。
「友人の屋敷に飾られていたあなたの絵を見て、すっかり気に入ってしまってね」
スパルティ伯爵夫妻は上機嫌で言って、アトリエに無造作に置かれた画板を興味深そうに見てまわった。
「ありがとうございます。ここにあるものはほとんど習作ですから、あちらのギャラリーでゆっくりご覧ください」
ヴァネッサは女中を呼んで夫妻を案内させた。
彼女の邸宅には二つのアトリエのほかに、商談にきた客人向けの私設画廊がある。
気をつかわずに鑑賞したいだろうと二人につきそわずアトリエに残ったディトラスは、下描きのままの木炭画や単色で印影をつけただけのキャンバスを見まわして言った。
「アネイシアの絵の進み具合はどうだろうか」
一緒に残ったヴァネッサは自信ありげにうなずく。
「順調ですわ。もうひとつのアトリエで作業をしているんです」
「見せてもらっても?」
「いいえ、それはだめです。誰にも見せないと約束しましたから」
「どういうことだ」
困惑したディトラスにも女画家は意に介さない。
「創作のアイディアがわいてきたので、モデルのポーズに少し無理な注文をしてしまいましたの。アネイシアは完成した絵を公表しないなら、と私の希望を聞きいれてくださったのですわ」
「彼女が嫌がることを強いているのか」
ディトラスが詰問するように語気を荒げたので、ヴァネッサは驚いて首をふった。
「そうではありません。アネイシアの大切にしているものを一緒に絵におさめたいと申しでただけです。わたしの筆に誓って、脅して絵を描くなど絶対にいたしません」
「大切なものというのはなんだ」
「個人的なことですから、わたしからは申しあげられませんわ。気になるのなら夫人に直接お尋ねください」
しばらく疑わしげな目を向けたディトラスは、やがて高ぶった感情を払うようにため息をついた。
「アネイシアはいま体調がよくないんだ。心労の可能性もある。あまり彼女に無理をさせないでくれ」
「まあ、そうでしたの。ずっとお疲れが続いているご様子でしたから心配していたのです。絵のほうはしばらく中断したほうがいいかしら」
「いや、ここに来るのは気晴らしになると言っていたが……なにか彼女から相談をうけたりはしていないか」
「いいえ、あの方は淑女の鑑のような思慮深い貴婦人ですわ。軽々しく心の内を他人にうちあけたりなさらないでしょう」
アネイシアの本意を知る者は誰もいない。
彼女が協力者ももたずひとりで密かに動くのは、許されない恋のためか、それとも間者の役目のためなのか。
どちらにせよ、表裏にまったく別の顔をもつ妻を信頼するのは難しい。
「彼女の体調不良の原因がはっきりしないうちは、あなたも気を配ってほしい。五日前にも、帰ったとたん疲労で夕食もとらずに休んでしまったんだ」
「五日前? それはおかしいですわ。アネイシアが最後にこちらへお越しになったのは、ちょうど一週間前ですもの」
「だが、彼女がひとりで外出するのはここだけで……」
ディトラスはふいに続きの言葉をのみこんだ。
脳裏に浮かんだのは、友人から教えられた『噂話』だ。
「ここ最近、アネイシアがアトリエへ来たのはいつだ?」
唐突な質問にとまどいながら、ヴァネッサは指折り日付をあげていった。
それは執事から報告をうけたアネイシアの外出日数よりあきらかに少ない。
ビオンの話の信憑性が増したことは、ディトラスにとってまったく好ましくない事実だった。
「アネイシアはいったい……」
ヴァネッサが疑問を口にしたとき、女中が現れて、スパルティ伯爵夫妻が彼女を呼んでいると告げた。
ギャラリーの作品の意図や技術について話を聞きたいのだという。
「大事な客人だ、行ってくるといい。俺はアトリエを見学させてもらっている」
ディトラスにすすめられて、中途半端に途切れた話の先を気にしつつ、ヴァネッサはその場を離れた。
残されたディトラスは冷静になるために室内を何度も行ったり来たりしたものの、気をおちつかせるには足らなかった。
黄味がかった金髪と薄色の瞳――ビオンから得た男の姿を思いおこして、不快さは増していく。
いうまでもなく、嫉妬だという自覚はあった。
歩きまわるうち、ディトラスはいつのまにか続きになっているメインアトリエへ足を踏みこんでしまっていた。
扉をあけた覚えはないので、もとから開放されていたのかもしれない。
こちらの部屋は天上が高く、物も比較的少ない。
注文を受け現在手がけているとおぼしき大きなキャンバスが数枚、どれも白い布で覆われていた。
絵の具の独特なにおいがこもっている。
ディトラスがそのまま目的もなく室内をゆっくり歩いていると、暖炉の横に立てかけられたキャンバスの布が半分以上床に落ちているのに気づいた。
ほこりや汚れをつけないためのものだとヴァネッサから説明されたのを思いだして、かけなおしておこうと布を拾いあげた彼は、その絵の人物と目が合ったように感じてぎくりとする。
布の下から顔半分があらわになったのは、ほかでもないアネイシアだった。
半端に彩色された、しかし澄んだ青い目がかすかな笑みらしきものをたたえてディトラスを見つめている。
彼はしばらく絵から目を離せなかった。
ヴァネッサは本当に希有な才能の持ち主だ。
アネイシアの特徴をよくとらえていて、制作途中でさえ生きていると錯覚させるほどの息吹きを感じさせる。
布をつかんだ手は、結局キャンバスにかけなおすためではなく、絵のすべてをあきらかにするために自分のほうへ引きよせた。
ヴァネッサの言葉はもちろん覚えていたものの、期待と好奇心にはあらがえなかった。
さしたる抵抗もなく画板の上を滑る布がとりのぞかれると、見慣れた美しい姿が現れる。
ヴァネッサが気をきかせたのだろうか、その顔は少し以前のふっくらとした肉づきの輪郭を再現していた。
不思議なことに、この絵のために用意したはずの宝飾品がひとつも描かれていない。
衣装はディトラスが贈ったものだが、首にシンプルな真珠のネックレスをしているほかは、貴金属の類はなにもなかった。
ただ、手には短剣を持っている。
女性の肖像画といえば、レースをたっぷりつかった豪奢な衣装を身にまとったり、扇や花を持つといった構図がほとんどで、男性的象徴である武器をモチーフに加えるのはかなり珍しい。
実際虫も殺せそうにない貴婦人が、あまりにも細く白い手で短剣を持つ姿は、矛盾と違和感を覚えさせた。
それと同時に一種の倒錯的な美しさをも感じて、ディトラスはわずかに肌をあわだたせる。
アネイシアの大切なものというのはこの剣のことか、と顔を近づけたとき、彼は大きく心臓が跳ねたのを自覚して目を見開いた。
アネイシアの華奢な手のなかにあってすらほっそりとして小ぶりな剣は特別にあつらえたものだろう、装飾は簡素だが随所に品よく彫金をほどこしてあり、なにより柄にはめこまれた青い一石が彼を動揺させたのである。
ラフな彩色でありながら、菫青石だと直感した。
澄んで深い青色の鉱石はディトラスにとってアネイシアを象徴するものになっている。
この短剣のことを彼はたしかに知っていた。
幼い少女が驚いてディトラスを見あげ、うれしさと照れを入り混じらせた顔で礼を言ったのを覚えている。
大切に手入れをして、誰にもみつからないよういつも懐にいれて腰帯にさしていたのも。
「…………アン」
いったい何年ぶりにその名を口にしただろうか。
間違いなくあの少女にあげた剣だ。
アネイシアと年齢も合う。
しかし、どうしてもいまの彼女とは印象が重ならない。
母ひとり子ひとりの平民の子供が貴族令嬢になるなどという荒唐無稽な話のせいか、髪がまったく違うせいなのかディトラスにはわからなかったが、これほど決定的な証拠がそろってもまだ同一人物だと確信がもてない。
ディトラスは混乱と興奮がおさまらないままアトリエを出た。
女中に、急用ができたので客人を任せるとヴァネッサへの伝言を頼むと、追われるように屋敷をあとにする。
車寄せに馬車がまわされてきたとき、ふと思いたって馭者へ「アネイシアは最近どこへ行っているんだ」と尋ねた。
お仕着せもまだ身体に馴染んでいない若い馭者は、あからさまに動揺して目を泳がせた。
「こ、こちらのお屋敷へ十日に一、二回はお連れしています」
「ほかには」
「い、いえ、特に……」
馭者は素直な性格らしくあまりにもわかりやすい反応だったので、ディトラスは視線を強くあててゆっくり言った。
「おまえの主人は誰だ?」
「も、もちろん旦那様です」
「ではもう一度聞く。最近アネイシアがここ以外に行く場所があるはずだが、それはどこだ」
若い男はすっかり抵抗を諦めたように、うなだれて答えた。
「ルマーシ子爵のお屋敷を、訪問されています」
「ほかに指示された行き先はあるか」
「いえ、そこだけです」
「誰と会っているんだ」
「お屋敷の出入りはいつもおひとりなので、そこまでは……あ、でも一度だけ、お帰りの間際に男性が追いかけてきたことがあります。明るい金髪の、若い紳士でした」
ディトラスは眉間をこわばらせて黙りこんだ。
まったく友好的ではない空気は馭者の男にも存分に伝わっているらしく、おちつかなげにきょろきょろしたり、手をさわったりしている。
「…………あ、あの、旦那様」
「馬車を出してくれ」
「は、はい!」
低い命令の声に馭者は文字通りとびあがり、慌てて鞭をにぎったのだった。
アネイシアから話を聞くつもりで屋敷へ戻ったディトラスは、意外な人物から面会を求められて気をそがれてしまった。
「マリナが俺に?」
「はい、奥様の体調について申しあげたいことがあると」
主人の外套と手袋をうけとりながら執事が告げる。
「なんの話か聞いたか」
「いいえ、旦那様に直接お伝えしたいそうです」
「わかった。書斎へ呼んでくれ」
重厚な樫の木の机でメッセージカードを整理していると、十分ほどしてマリナがやってきた。
執事が一緒ではないところをみると、気をきかせたらしい。
ディトラスはカードの束をわきへ寄せて、椅子に背をあずけた。
「アネイシアの体調はどうだ」
「あまりお変わりありません」
調子のいい日もあれば悪い日もある、という状況がずっと続いているようだ。
マリナは机から少し離れた位置に立っている。
主人を恐れているというふうではないが、ある種の緊張感がただよっており、それは表情にも表れていた。
「彼女について話したいことがあるというのは?」
率直に問うと、若い女中は前で重ねた手を組みかえ、意を決したように顔をあげた。
「奥様のご不調の原因はこのところの外出ではないかと思うのです。どうか旦那様からアトリエへ通われるのをしばらくとどめていただけないでしょうか」
「アネイシアはなにか言っていたか」
「ロッシ夫人と会うだけなので、なにも心配はいらないと。……奥様は大変忍耐強い方ですが、お身体があまり丈夫ではありません。このまま無理を重ねられてもっとひどいことになるのではないかと心配なのです」
マリナの憂慮はディトラスにもよくわかる。
アネイシアがもっとも信頼しているであろう自分の女中にも、最近の行動についてなにも告げていないのは意外だったが、彼女が慎重な性格だというのはわかっていたので納得もしていた。
「彼女は昔から虚弱なのか」
「わたしが奥様のお世話をさせていただくようになったのは奥様が十四歳のころからですが、そのときが……おそらく一番弱っておいでの時期でした」
「大病を患っていたのか」
「ええ、いえ……」
いつも明瞭な受け答えをするマリナらしくなく、答えをさがすように言いよどんだ。
しかしすぐにはっとして続ける。
「いまは、問題なく健やかでいらっしゃいます。人並み以上に頑健とはいえませんが、たしかに健康で」
「わかっている。責めたわけじゃない」
新妻が病持ちだったなどとわかれば大問題だ。
しかもその事実を前もってあきらかにしていなかったと知れれば、夫婦両家の信用に関わる。
マリナがそれに気づいて慌てて弁明したのを察して、ディトラスは安心させるために言ったのだった。
意外だったのは、彼女がアネイシア付きの女中となってからの年数がさほど長くないことだ。
二人の親密な様子から長年の主従関係かと思っていたが、そうではないらしい。
「このところのアネイシアの体調は俺も楽観していない。アトリエ通いについては気がかりな点があるため、今後の対処を考えているところだ。これ以上彼女に負担をかけるつもりはない」
主人の言葉を聞いても、マリナは厳しい表情をくずさなかった。
「奥様は旦那様を大変信頼し、頼りにしておいでです。どうかよろしくお願いします」
嘆願したというより、暗に期待を裏切るなと牽制するような語気の強さだった。
自分はまだ主人を信用していないという含みが多分に感じられて、それは普段の態度からも察せられる。
ディトラスはマリナのはっきりした性格が嫌いではなく、むしろアネイシアが彼を深く信頼しているということのほうが不思議だった。
初めて会った結婚式の日以来、まともな夫婦関係を築いてきたとはいえない。
いや、十年以上昔に本当に会っていたのだとしたら。
「アネイシアは……」
言いかけたものの、ディトラスは言葉の先を見失って声をとぎれさせた。
いったいマリナになにを尋ねられるだろう。
おまえの女主は子供のころ母親とともに貴族の屋敷で下働きをしていたのか、本当にハイオーニア伯爵の実子なのか、あるいは以前から秘密の恋人がいていまもなおその関係は続いているのか。
彼のもつ疑惑はなんであれ、ただのひとつもこの年若い女中へ投げかけられるものではなかった。
もとより彼女はなにも知らないかもしれない。
かといって、いまアネイシアと顔を合わせて二人で話ができる気はしなかった。
屋敷に戻ってきたときの勢いはすでになく、自分が完全に理性的な状態だといえる自信がなくなっている。
不自然に生まれた沈黙のなか、ディトラスは机の引き出しから小箱をとりだした。
ふたをあけると内側は絹のクッション台になっており、銀のペンダントがおさめられている。
厚みのある楕円のチャームはよくあるロケットペンダントにみえるが、あけられるようにはなっておらず、表面に精緻な彫金がほどこされている。
ディトラスはいつもそうしていたように手のなかでなめらかな表面を撫でると、立ちあがってマリナに手渡した。
「以前拾ったんだが、アネイシアのものだと思う。返しておいてくれないか」
主人の脈絡のない言動に、女中はとまどった様子をみせながらペンダントをうけとった。
「わたしは見たことがないお品ですが……」
「一度彼女に見せてくれ。違うと言われたら、また俺へ戻してくれればいい」
「かしこまりました」
いぶかしげにしながらもマリナは丁寧に布で包んで、懐へはさんだ。
彼女が退室してひとりになると、ディトラスはからになった小箱に目をおとした。
しばらくそのままじっとしていたが、乱暴に頭をかくときびすを返して書斎を出る。
とても屋敷にいられる気分ではなかった。
「馬車を」と命じる主人に執事が驚いている。
さきほど帰ってきたと思ったら、日も暮れているのにまた出かけようとしているのだから無理もない。
ディトラスはかまわず「今夜は戻らない」とだけ告げて、足早に屋敷をあとにした。
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