***** 12 *****
吐き気がこみあげるのをこらえながらアネイシアがスカートのしわを慎重に整えていると、後ろで上着をはおったレイモン・アンディーノがけだるげに言った。
「我が家に来てもらえれば、もっとゆっくり『愛しあえる』のに。こんな短い逢瀬ではあなたの肌を愛撫するのもままならない」
アネイシアはいっそう吐き気が強くなるのを感じて、胸もとに手をあてた。
「あなたが私のコルセットを締めて、ドレスのピンをとめてくれるとでも?」
レイモンと会うのは決まってルマーシ子爵の屋敷だった。
いつも短い時間に限られるため、『事』をすませるのにアネイシアはドレスをすべて脱いでしまうのを拒み、レイモンもそれは承諾していた。
貴婦人の衣装は自分ひとりで着るのが難しいからだ。
普通は女中が手伝うものだが、この裏サロンとでもいうべき場所には奴隷のような怪しげな使用人はいるものの女中はおいていない。
まがりなりにも貴族のはしくれであるレイモンには、他人の着替えを手伝うといった思考はかけらもないため、不承ぶしょう妥協案をうけいれている。
アネイシアはそれを考慮したうえでドレスを選んでいた。
最近の流行はコルセットをつけずやわらかいモスリンをつかった比較的シンプルな衣装で、コルセットで締めあげてあちこちをピンでとめながら重ね着をする型のものは少なくなっている。
彼女はレイモンと会うときはあえて後者を着ることで、完全にドレスを脱ぐのを拒否する理由にした。
それはあまりにささやかで無意味な抵抗といえたが、彼女ができる最大の意思表示だった。
全身が目の前の男を拒絶していて、一刻も早く距離をとりたいと悲鳴をあげている。
自身の正直な反応をおさえつけ、シガーをくわえるレイモンに目をやった。
「あなたが以前私におしつけた『あれ』は、本当に良い夢をみられるものなのですか」
「おや、ようやく興味がでてきたかい?」
レイモンは紫煙を吐きながら、思わずといったようににやりと笑った。
先日ここで会った際、アネイシアが帰ろうと屋敷を出たところに珍しく彼が追いかけてきて、無理やり小さな紙の包みを渡してきた。
すばらしく良い気分になれるとささやいて、いまと同じように笑ったのだった。
「もちろん良い思いができますとも。特に快楽に身を任せているときにはね。まあ、よほどつらい経験をしたり人生に希望を見いだせない人は、悪夢をみるそうだが」
「……私はただ、現実よりも良い夢にひたっていたいだけです」
「なるほど、あなたの境遇をかえりみれば、そう思うのも無理はない。もっと上質の『ハーブ』ならいい効果がでやすいけれど、残念ながらさしあげられるほど安いものではないのでね」
アネイシアは男へ向けた目をそらさなかった。
「言い値をだせば、あなた自身が用意してくれるのですか」
「そうですね……ちょっとしたつてはある。だが本当に試す気があると?」
「ええ、あなたの言うとおり嫌なことを忘れられるのなら。そしてこれからもずっとあなたが調達してくれるというなら、私は安心して手をだすでしょうね」
レイモンは沈黙して、いくぶんせわしなくシガーを吸った。
このままなりゆきで商品を売ってもいいものか思案しているふうだった。
アネイシアは辛抱強く待ったが、いっこうに返事をしない男にじれたように首をふる。
「無理だというならかまいません。ほかに頼むところがないわけではありませんから」
「いえ、ぼくが用意しますよ。そのほうがいろいろと都合がよいでしょう」
彼女が言い終わらないうちに、レイモンが早口で言って立ちあがった。
「次に会うときに渡します。物と代金は必ず同時にやりとりするのが取り引きのルールです」
「わかりました」
アネイシアは最後に横目で男をかすめ見ると、すぐに興味を失ったように背を向け、そのまま部屋をあとにした。
馬車に乗りこんで座席に腰をおろし、アネイシアはようやく深く息をついて身体の力をぬいた。
はやく湯浴みをしたくてたまらない。
レイモン・アンディーノのにおいがこびりついているようでひどく不快だった。
こんな不毛なことをもう何度くりかえしているだろうか。
彼女は思った以上に心身がむしばまれていくのを感じていた。
それに、この先ずっと誰にも知られずにいられるはずがない。
いずれディトラスも不審に思うときがくるだろうし、人々の噂にならないともかぎらない。
どこかでけりをつけなければならないことを痛感していた。
耐えるだけではこの悪夢は終わらず、状況は悪くなる一方だ。
なんとしてものがれるすべをみつけなければならなかった。
そのためにはレイモンの素性と目的を探る必要がある。
そもそもヴァネッサと再会したあの日、彼が近づいてきたのは偶然だったのだろうか。
いや、ソフィアの思いつきでルマーシ子爵邸へ訪問したので偶然居合わせたのには違いないが、アネイシアがニケラツィニ侯爵家へ嫁いだことを知っていて、明確にそれを材料に脅迫してきた。
レイモンが以前からそのために彼女をさがしていた可能性はある。
ディトラスの同伴でしか外出しないアネイシアに接触するため、夫の出向きそうな場所で待ち伏せをしていたのだとしたら。
そして実際にそのこころみは成功している。
最初レイモンは金銭を要求しようとしていた。
彼はアネイシアの初婚での夫、老カラミア侯爵の遠縁である子爵家の次男で、後継ぎではないため自分で身をたてなければならなかった。
しかしまじめに仕事につけるような性格ではなく、放蕩生活を続けて絶えず小さな不祥事をおこしている。
紳士録をみれば貴族に名を連ねる者の基本的な情報は得られるし、アネイシアはディトラスが購読する新聞へ自分でも目を通しており、何度かレイモンが不名誉な記事になっているのを思いだしたのだった。
末端子爵家のいち子息のことなので一面を飾るスキャンダルにはならないが、紙面の隅を埋めるように女性関係や社交上のトラブルをおこしていると、非難めいた論調で掲載されていたのである。
記事によれば、レイモンは騒動のたびに少なくない賠償金や和解金を支払っており、子爵家から勘当されるのも時間の問題だという。
それでも派手な暮らしぶりをやめていないとすれば、彼が経済的に困窮しているのは疑いようがない。
アネイシアに金銭を要求したのもただの冗談ではないはずだ。
たまたま彼女の身体にも興味をもっただけで、いずれ金を求めてくるのは確実と思われた。
しかし、いくら侯爵家へ嫁いだからといって、結婚したばかりの若い娘が自由にできる金銭などほとんどないばかりか、実家ハイオーニア伯爵家の懐事情は誰もが知るところで、持参金すらろくに持たされていない。
レイモンが苦労して接触をはかってまで、わざわざアネイシアから脅しとるだけの価値があるとは考えにくかった。
その点については結論がでなかったが、彼が当座の必要資金をどうやって稼いでいるかは、しばらく観察するうちにつきとめられた。
裏サロンで彼とほかの客人が身体を寄せあって密談しながら、小さな紙包や小箱をやりとりしているのを何度も見たからだ。
彼はおそらく薬物の密売で当座をしのいでいる。
もちろん病を治すためのものではなく、麻薬が商品である。
陶酔や多幸感が得られるらしいというのはアネイシアも聞いたことがあった―――徐々にそれなしではいられなくなり、最後は身を滅ぼすとも。
当然ながら流通は禁止されているが、裏サロンでそんな常識が通じるはずもなく、いたるところで使われていたのである。
あるとき、指定された時間より早くサロンをおとずれたアネイシアは、けだるげにソファに身をあずけて葡萄酒を飲む半裸の女に近づいた。
彼女はここにいりびたっており、レイモンからひんぱんに薬を買っていたのを知っていたからだ。
かなり薄暗い室内とはいえ、距離が近すぎればお互いの顔はぼんやり見えてしまう。
そのためアネイシアは顔の上半分を覆うアイマスクをつけたが、素性を知られたくない客人はほかにも多くいて半数ほどは仮面や布で顔を隠していたため、気にする者は誰もいない。
見知らぬ人物が目の前まで来ても女は衣の乱れを恥じるでもなく、緩慢に顔をあげてうっすらと笑う。
「ごきげんよう。今日は奥様が相手をしてくれるのかしら?」
「あなたが使っているそれについて、教えていただけませんか」
アネイシアは努めて冷静を装い、卓の上に広げられた紙片をそっと指さした。
折り目のついた薄紙の上に白い粉がわずかに残っている。
「あら、奥様もこれが欲しいの?」
「ええ、あなたが男性からうけとるのを何度か見かけたのですが、彼に言えばもらえるのですか」
「買うのよ、もちろん。あの人は売人なの。顧客を増やしたがっているから、欲しいといえばすぐに用意してくれるわ」
「彼は……売るだけですか? 元締めではなく」
「元締めっていうのは、能力があって賢くなくちゃいけないのよ。あのおつむの軽いお坊ちゃんにできるのは、商品をうけとって客へ流すだけよ」
女はいかにもおかしいというように笑い声をあげた。
「なあに、奥様は買うのじゃなく売るほうをやりたいの?」
「いいえ、ただ……上の立場の人なら、頼めば安く手に入れられるかと思って」
「あはは、ずっとつきあっていくことになるものねえ。でも、それならあの人はやめたほうがいいかもしれないわよ。最近は特にそうだけどお金に困っているみたいで、理由をつけてはふっかけようとするの。品質もだんだん悪くなってきているし」
アネイシアはつい最近の新聞でもレイモン・アンディーノの名を見たのを思いだした。
どこかへ支払わなければならない金がまた上積みされたのだろう。
「ご親切にどうもありがとう。買うのはほかの人をさがすことにします。……彼の耳に入るとやっかいなので、どうかここでの話は漏らさないでいただけますか」
アネイシアが数枚の紙幣を卓に置くと、女はこころよく承諾した。
酒と薬でほとんど正気ではない人間が相手ではなんの保険にもならないが、口止めは必要だった。
うまくいけば、しばらくのあいだは沈黙を守ってくれるだろう。
「ありがとう、奥様」と間延びした声で言う女を残して、アネイシアはその場を離れた。
やはりレイモンは禁止薬物をとりあつかっている。
おおやけになれば、彼の立場はいちじるしく悪くなるだろう。
すでに実家からは勘当の瀬戸際にいるし、くりかえされる騒動のせいで人望もないことを考えれば、彼を擁護する者も現れないはずだ。
あとは交渉のために薬の現物を手にいれる必要があった。
互いに公表されたくない事情を黙秘するという取り引きを成立させれば、この醜悪な関係を終わらせることができる。
話し合いを有利に進めるのに、決定的な証拠である薬とレイモンから買ったという事実が必要なのだ。
健全な解決からはほど遠いが、考えられる手段はもうこれくらいしかない。
不安をかかえながらも、アネイシアは自分のやりかたで立ちあがって前を見るしかなかった。
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