***** 11 *****

 アネイシアの寝室をノックしたもののなんの反応もなく、ディトラスはしばらく考えたすえドアを静かにひらいた。

 珍しいことに女中のマリナがいない。

 午前中にすませなければならない仕事が多いため、彼女もかりだされているのだろう。

 窓の半分を遮光カーテンで覆った室内は、それでも外の快晴のおかげでやわらかな薄明るさを保っている。

 朝食の席につくと、女中が「奥様はお身体がおもわしくなく、お休みになっていらっしゃいます」と告げた。

 それ自体はここ最近ときどきあることだったが、以前医師が言った環境の変化による疲労が原因という診断をディトラスは疑いはじめていた。

 ベッドに近づくとアネイシアが眠っている。

 華奢な鎖骨がくっきりと浮いていて、痩せたのは目にもあきらかだった。

 初めて症状がでたとき、ディトラスが慌てた以上に彼女自身が驚き、身体が動かせないのに当惑していた。

 医師の言うとおり疲れがたまっていたのでしょうと言ったアネイシアは、ディトラスに迷惑をかけたことを気にするばかりで、自身の体調そのものにはほとんど関心をはらっていなかった。

 そのため病状は軽いのだろうと思っていたが、家内の仕事や社交のつきあいを減らしても、改善しないどころか徐々にやつれていく姿をみれば、他の原因に目を向けないわけにはいかない。

 ディトラスは椅子をベッドのそばまでひきよせて座ると、睫毛まで銀色に彩られたアネイシアの寝顔を見おろした。

 彼女が体調をくずしてからはずっと寝室をわけており、こうして眠っている姿を見るのは久しぶりだった。

 というよりも、結婚翌日の朝以降アネイシアの寝顔を見た覚えがない。

 ディトラスも目覚めは早いほうだが彼女はそれ以上で、しかも彼の睡眠をさまたげないよう先にベッドを出ずにいてくれているらしかった。

 目を覚ますと、自分もいま起きたというようにゆっくりまぶたをあげて「おはようございます」とささやくのが彼女の気遣いだった。

 こうしてアネイシアの眠る顔を見ると、起きているときの冷淡な表情ではない意外なやわらかさを感じる。

 夜空の果てのような金斑の青瞳が、冷たい印象の正体なのだろうか。

 しかしディトラスにとってその目の色は温かな思い出そのものだ。

 貴族という身分の務めとして会ったこともない相手との結婚をうけいれながら、彼女を気にかけずにいられないのは、まさにその深青の瞳と、印象とはちがう彼女の気質ゆえだった。

 ふと、アネイシアが身じろぐ。

 横向いていた顔があおむけになったとき、ディトラスの目が彼女のこめかみにひきよせられた。

 耳の上、髪の生え際のあたりにうっすらと残る傷跡に気づいたからだ。

 普段は気にもならない古い跡だが、厳しいしつけとともに育てられた淑女にはふさわしくないものだけに、余計に目をひかれる。

 気づいた事実になぜかぎくりとしたとき、規則正しい寝息をたてていたアネイシアが長く息を吐いて、それからぼんやりと目をあけた。

 ゆっくりこちらを向いてディトラスと目が合った瞬間、驚愕に目を見ひらいて身体を遠ざける。

 そのまま寝台の反対側から落ちそうになって、ディトラスはとっさに彼女の腕をつかんで抱きよせた。

 「驚かせて悪かった」

 人の寝顔を盗み見るのはたしかに無作法な行為で、すぐに謝罪したものの、彼女の過剰な反応に困惑と違和感を覚えてもいた。

 つかんだ細い腕は震えており、激しい動悸が伝わってくるようだ。

 「いいえ」と言ったきり、アネイシアはそのまま動かない。

 ディトラスの胸にうずもれた顔は見えなかったが、やがて震えがおさまり深い呼吸がきこえたあと、彼女はぎこちなく身体を離した。

 「申し訳ありません。寝呆けていたようです」

 いつものとりとめのない表情が、いまはやけに疲れてみえた。

 「いや、ゆっくり休むといい」

 ディトラスはそっと彼女の腕を離して、重ねたクッションに背をもたれかけさせる。

 「具合がよくないと聞いて様子をみにきただけだ。また少し痩せたんじゃないか」

 「そうでしょうか……。自分ではあまりわからないのです」

 アネイシアは自分の腕をながめながら困ったように言った。

 「疲労だけが原因とは思えない。別の医師に診せてみないか」

 「いいえ、それにはおよびません。近ごろしばらくは調子がよかったのです。ゆっくり回復しているのでしょう」

 ディトラスは口をつぐんだ。

 彼女は偽りを通そうとしている。

 仕事で彼がひんぱんに家をあけるあいだ、アネイシアが何度も寝込んでいたのを、知らないとでも思っているのだろうか。

 たしかにディトラスがいるときは彼女の体調もおちついているようにみえるが、彼が不在のときヴァネッサのアトリエへ出かけることが多く、何度かに一度は夕食もとれないほど疲れはて早々に就寝してしまうのだという。

 彼女の体調に気を配るよう命じておいた執事の報告で、現状はディトラスも把握していた。

 「ヴァネッサのアトリエへ通うのが負担になっているなら、やめてもかまわない」

 ディトラスの提案に、アネイシアは再び首をふる。

 「ロッシ夫人とお話するのはむしろ私にとって楽しみなのです。できるならこのまま続けさせていただけませんか」

 そこまで言われては彼もそれ以上口出しはできなかった。

 夫にうちあけられない悩みをヴァネッサには相談しているのかもしれない。

 ディトラスがわかったと言うと、彼女は安堵したようだった。

 「時間をとらせてしまってごめんなさい。これからお勤めでしょう」

 気づかわしげなアネイシアの言葉を聞いているうち、彼はいつになく彼女のそばを離れがたくなった。

 相手が病人だという無意識の抑制があるためなのか、いつもわきあがる行き場のない苛立ちを感じないせいかもしれない。

 「いや、今日は午後から出るつもりだ。体調がいいなら、ここにお茶を用意させてもかまわないか?」

 アネイシアは一瞬目をみはって、「はい」とうなずいた。

 驚いた瞳の奥にちらりとみえたのが喜びだと、なぜかディトラスにはわかった。

 ベッドをおりようとするアネイシアをとどめて、寝台の横に卓を置き女中に茶の準備を整えさせる。

 彼女はいくらか躊躇をみせたもののベッドに身をおこしたままお茶を飲み、珍しく焼き菓子をいくつか口にした。

 このところ食事どころか甘味すらほとんど食べていなかったのを知っているディトラスは、彼女もこの時間を楽しんでいるのだろうと察する。

 今日は食がすすむようだなと軽く揶揄した彼に、アネイシアは恥ずかしげな顔をみせ、これが一番好きだと告白して蜂蜜のマドレーヌにそっと手をのばした。

 それは昔、ディトラスが幼い少女に初めてあげた焼き菓子だった。



 所属するクラブの屋敷にディトラスがおとずれたのは、友人のビオンに呼びだされたからだった。

 見知った顔のメンバーが何人かいたのであいさつをしたものの、友人はまだ来ていないようだ。

 あいたソファに腰をおろして女中にコーヒーの用意を頼むと、シガーに火をつけることもなく新聞を手にとる。

 とはいえ新聞は自邸で毎朝何紙も読んでいるので、わざわざここに来てまでそうする必要もなく、政治面にやった目は文字の上をすべるばかりだ。

 そもそも今日は朝食のあとヴァネッサのアトリエへ行くというアネイシアに同行しようと思っていたのである。

 彼女の体調はあいかわらずだったが、先日の見舞いから二人の心理的な距離はずいぶん近づいたように感じていた。

 アネイシアのしぐさに無意識に目をやっているのを自覚したり、視線に気づいた彼女が気恥ずかしそうにするのを好ましく思ったり、彼女のその日の予定が気になって積極的に話しかけるうち、気詰まりだった食事が楽しみになっている。

 アネイシア自身の好きなものや趣味を知りたいと思うようになったのも、以前にはなかった心境の変化だ。

 そういえばヴァネッサの絵の進行具合はどんなものだろうかと気になり、一度様子をみにいこうと思いたった。

 単純にモデルをするアネイシアを見たいという興味も、思いつきの半分を占めている。

 しかし、残念なことにディトラスが提案を本人に伝えるまえに、友人から呼びだされてしまったのだった。

 卓上のコーヒーカップがからになるころ、ようやくビオンは現れた。

 すぐにディトラスをみつけると手をあげてあいさつし、遠慮なく隣へ腰をおろす。

 寄宿学校の同級生だったこの男はひょうきんといってもいい軽快さをもった明るい性格で、ディトラスとは卒業後も親しくつきあっている。

 「久しぶりだな。しばらく出征していたんだろう」

 「ああ、ひと月ほど隣国国境の前線で指揮をとっていた。戻ってからも後処理が山積みだ」

 「あそこは綿の一大産地だから、値が高騰してこっちも大変だよ。それにしても、持てる者の義務とはいえニケラツィニ侯爵は大事な跡取り息子が戦争へいくのをよく許したもんだ」

 「父にそんな高尚な志があるわけじゃない。ただ自分の事業に忙しくてこちらに関心が向かないだけだ。それに前線といっても、俺は最後方の安全地帯で作戦を指揮していただけだからな。――万が一があったとしても、弟がいれば問題ない」

 「ロウガーニー家はそれで安泰としても、結婚したばかりの夫人を寡婦にするのは気の毒じゃないか」

 友人の大げさな言いように、ディトラスはひらきかけた口をとじた。

 戦線から帰還した彼を出迎えたアネイシアがひどく安堵した表情をうかべていたのを、いまになって思いだす。

 仰々しい祝賀もなく、ただ日常そのままに屋敷を守りながら夫を待っていた彼女の配慮と忍耐にようやく気づいて、ディトラスは冷静でいられなくなった。

 新婚ひと月足らずで未亡人となっていたとしたら、彼女は即座に横暴なハイオーニア伯爵のもとに送り返されたか、あるいは弟と再婚していたかもしれない。

 ディトラスにとってそれはどちらも容認できる選択ではなかった。

 彼の気もそぞろな様子に驚いたのはビオンだ。

 父親の決めた結婚相手に爪の先ほどの興味も示さなかったディトラスがみせた意外な反応は、ごく軽い冗談のつもりで口にしたビオンを動揺させる以上に、これから話すつもりだったことをためらわせるものだった。

 「――なんだ、あれだけ気のないふりをしておきながら、いまさら火がついたっていうのか? まあ、夫人との仲が順調ならそれに越したことはない。関係が悪化しているならおまえも知っておいたほうがいいと思ったんだが、余計な親切だったかもな」

 「なんの話だ」

 いぶかしげに言ったディトラスに対して、ビオンはばつの悪い顔をみせる。

 「……あァ、なんというか、噂だよ。若く美しい婦人はどうしても目立つ。あくびひとつしただけで、大げさに流言の種にされてしまうものだ」

 「つまり、話半分に聞けと?」

 友人のもってまわった言いようにはあきらかに含意があり、ディトラスの不審をさそう。

 「おれも又聞きだからな。ルマーシ子爵を知っているか? 彼の屋敷でおまえの奥方をみかけたと知人が言っていたんだ」

 「ああ、子爵とは面識がある。俺が援助する芸術家たちの作品をよく買ってくれるし、サロンでひんぱんに展示会を催している。彼のところによく作品を出す画家とアネイシアは知り合いだから、なにもおかしくはない」

 「もちろんそれなら問題はない。だが知人が子爵邸にいたのは茶会に招待されたからで、その日はほかになんの催しもなかった。奥方は茶会の招待客ではなく、人目をさけて家の奥へ案内されていった。知人がそれを目撃したのは本当に偶然らしい。結局、子爵からも夫人からも彼女の紹介はなく、来客などいないかのようだったと」

 ビオンは給仕されたコーヒーに口をつけた。

 「話はここで終わらないんだ。知人は急に体調をくずして、二時間もしないうちに帰ることにした。外の空気を吸いたくなり馬車を待ちがてら玄関を出たら、建物の陰に目立たないように馬車がとめられていて、勝手口から奥方が現れた。すぐあとから男が追いかけてきて彼女の手をひき、ただならぬ様子だったらしい。男と別れたあと、奥方はそのまま馬車に乗りこんで走り去ってしまったんだと」

 ディトラスはからになった自分のカップに目をおとした。

 普段のアネイシアからは想像できない大胆な行動の数々に、理解が追いつかなかった。

 しかし、見間違いを疑うには彼女は目立ちすぎる。

 印象的な容貌は良くも悪くも人の記憶に残りやすい。

 それに、友人はらちもない軽口はよくたたくが、なんの実もない噂話を不用意に広めてディトラスを惑わせるような軽薄なたちではなかった。

 たしかな根拠があって、それでも迷ったすえこうして知らせてくれたのだろう。

 最初の動揺がおさまったあと、ディトラスが考えたのはかねてから疑っていたアネイシアの想い人の存在だった。

 結婚以前から彼女の心をとらえているかもしれない見知らぬ相手をおぼろげには想像していたが、にわかにそれが実体をもって現れたのを焦燥ととも実感した。

 そう、ディトラスはもはやその点について平静を保てなくなっていたのである。

 彼女との距離がようやくゆっくりと近づいていくのを感じていて、彼女もそう思ってくれているという手ごたえもあった。

 アネイシアを力づくで縛りつけたいとは微塵も思わないが、干渉してくる影に対して見て見ぬふりができる段階はとうに過ぎていた。

 「相手の男は何者だったんだ」

 ディトラスはようやく重く口をひらいた。

 「それがわかっていれば最初に教えたさ。三十にならないくらいの年で使用人ではないらしい。富裕階級か下級貴族の子息といったふぜいだそうだ。黄味がかった金髪で目は白銅色か薄水色」

 ビオンの言葉のまま人物像を組みたててみるが、知人に心あたりはいない。

 ルマーシ子爵の知り合いだろうか。

 それとも彼は場所を提供しているだけなのか。

 あるいはハイオーニア伯爵の関係者ということもあり得た。

 アネイシアが父親からロウガーニー家のなんらかの情報を渡すよう強要されているとすれば、仲介者を使って実家とやりとりをしてもおかしくない。

 彼女はすでにギオス領の運営に深く関わっているし、ニケラツィニ侯爵家について書かれた書物にも熱心に目を通している。

 ディトラスはあらゆる可能性を狭めないよう意識的に視野を広げなければならなかった。

 そうしなければ、ひどく狭量な嫉意をさらけだしそうだったからだ。

 アネイシアの真意はどこにあるのだろうか。

 素知らぬふりでディトラスを謀っていたとは思いたくない。

 ときおりみせてくれた素顔と真摯な言葉が嘘ではないと信じたかった。

 しかし、彼女が実際になにを考えていたのか、本心はどこにあったのか、確信がもてるほどのことはなにも知らないのだと気づかされて、ディトラスは眉間に深くしわを刻んだ。

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