***** 10 *****
このところ、ときどき糸が切れるように全身から力が抜けて動けなくなってしまう日がある。
朝目覚めてどうしても頭があがらないのに、自分では身体に異変はなにも感じない。
最初はディトラスも驚いて医師を呼んだものの、慣れない生活で疲れがたまっているのだろうと診断されてからはとり乱すことなく、体調を崩したときは床で安静にしているようにと厳命されてしまった。
一度ベッドでとどこおった帳簿の処理をしていたら、すぐにみつかってとりあげられたほどの徹底ぶりだ。
しかし、それにも増して動揺したのは女中のマリナだった。
アネイシアの身体を支えて上半身を起こし、幾重にも並べられた枕へ背をもたれさせると、いれたばかりの香り高い紅茶のカップを慎重に手渡す。
それから女主人がゆっくり口をつけるのを見つめて、深くしわができるほど眉を寄せて言った。
「奥様、いえ、アネイシアさま、なにかお悩みがあるのならおっしゃってください。環境が変わってここでいろいろなお仕事をされているからといって、それだけで起きあがれなくなるほどお疲れになるなんてわたしには信じられません。旦那様か使用人からか、ひどい仕打ちをうけていらっしゃるのではありませんか」
マリナは女主人の細い食が近ごろさらに細くなり、ドレスにゆとりができてしまったのを知っている。
それは昔ハイオーニア伯爵邸で療養していたときと同じだった。
老侯爵のもとから戻ったばかりのアネイシアは身体がろくに動かず、ものを食べる意思すらなかった。
心の傷が癒えるにしたがって食事の量も徐々に増えたが、その過程で食べては吐くのをくりかえす時期があり、元気になったかと思えばまったく動けなくなる日もあるといった具合で、いまの状況はマリナに当時のことを思いださせるのにじゅうぶんなのである。
「それに最近よく出かけられるのは、アトリエへの御用だけではないのでは? ときどき、お屋敷へ戻られたとたんお食事も召しあがらずお休みになってしまわれるのには、なにか事情がおありなのではありませんか」
必死に訴えるマリナに、アネイシアはあいまいな顔をするしかなかった。
「あなたに心配をかけてごめんなさい。私はこの家の誰からも不遇な扱いをうけてはいません。マリナはディトラスを警戒しているけれど、誠実で正しい道をご存じの方よ。もし私になにかあったら、父上ではなくあの方を頼ってね。必ずあなたを良いようにとり計らってくださるから」
「アネイシアさまの身になにがあるとおっしゃるのですか! わたしはアネイシアさまをお支えするためにおそばにいるのです。それなのに、あなたはいつもご自分ですべて背負ってしまわれる。もう二度と、あのときのように心身をそこなわれるようなことがあってはなりません」
「いまは少し体調を崩しているけれど、私は大丈夫なの……本当に」
それは自分に言い聞かせる言葉でもあった。
ディトラスとロウガーニー家の内情に関わってくるため、レイモン・アンディーノとの悪辣な密約のことをマリナにうちあけるわけにはいかなかった。
あの男がアネイシアの身体と、それに加えもしも金銭を要求してくるというなら、与えればいいだけだ。
どうせ長くは続かない――遅かれ早かれ、いずれディトラスから離婚をきりだされる日がくるのは逃れられない。
彼が想い人の手をとるときがくるのではないかという不安にくわえ、アネイシア自身、以前の結婚以来月のものがひどく不順なままで、とても身ごもれる身体ではないという事情があるからだ。
ここへ嫁いでくるとき、環境が変わればあるいはとも思ったが、いっこうに改善する兆しはみえなかった。
彼女の体調を管理していた主治医から報告をきいていれば父もその事実を把握しているはずだが、自家の不利になることをニケラツィニ侯爵側へ正直に伝えているとは思えない。
だとしても、年老いた夫だったとはいえ二年の結婚生活の事実を知っているニケラツィニ侯爵が、うまずめの疑いをもっていても不思議ではなかった。
なにより、アネイシア自身がそれを望みはじめている。
二度目の結婚相手がディトラスだとわかったとき、奇異なめぐりあわせに驚きながらも身を尽くして彼に報いようと決意し、妻の役割をまっとうしてきたつもりだった。
しかし、いまや夫を欺き不貞の罪に染まっている。
事情はどうあれ伴侶への背信以外のなにものでもない。
本来ならディトラスへ過去を告白し、アネイシアから離縁を願いでるのが道理だった。
もし、すべてを知った彼に蔑みの目で見られたら。
偽りのうえの結婚だったと怒りをあらわにされたとしたら。
想像するだけで胸が苦しくなる。
不妊の女の烙印をおされたほうがまだましだとささやく卑怯な自分が、懺悔してしまいたい衝動をおしとどめた。
こんな保身にはしろうとする人間だと嗅ぎつけたからこそ、レイモン・アンディーノのような男が近づいてきたのかもしれない。
いっそ自分にこそふさわしい相手だとアネイシアは自虐した。
それでも、なにがあってもディトラスだけは守りたい。
偽りなく願っているのはそれだけだった。
ヴァネッサ・ロッシのアトリエは雑然として、絵の具のにおいの染みついた古いサンルームだが、アネイシアはここへ来ると気持ちが楽になる。
アトリエに男性がいないせいか、あるいはヴァネッサの人柄がそうさせるのかもしれなかった。
暖炉の前に立つでもなく扇を手にするわけでもない、ただ椅子に座っただけのポーズは、おそらくヴァネッサの求めるものからだいぶかけ離れていただろう。
しかし、彼女はアネイシアの希望どおりもっとも無難な構図にも口をはさまず、筆をとったのだった。
大きなカンバスと被写体のあいだを往復するヴァネッサの視線と、画布をすべるパステルのかすかな音がするほかは、室内は時が止まったように静かだった。
自由に思考する時間を自分へ与えないようにしてきたアネイシアにとって、絵のモデルは忍耐を要するものだった。
本を手にした人の肖像画を見たことがあるのを思いだして、それと同じ構図にすればずっと読書をしていられたのではないかと気づいたが、本に目を落としているわけにはいかないので、意味はなかったかもしれない。
「アネイシアは、ずっとハイオーニア領でお過ごしだったのですか」
ヴァネッサが世間話でもするように尋ねた。
出会ってからしばらくして、お互い名前で呼びあうようになってから二人の距離も縮まってきていたので、そんな質問ができたのだろう。
アネイシアは「ええ」と言葉少なに答えた。
公的には父と正妻の娘ということになっており、下手な話はできなかった。
継母は生きているが、実子の娘二人を流行り病で相次いで亡くしてからというもの、自身の相続したささやかな領地の屋敷に移ってしまい、男児をひとりもうけたあとは完全に夫との仲も冷えきっているという。
アネイシアは継母に会ったことは一度もない。
唯一の男子である弟は母親とたまに一緒に過ごしているそうだが、彼女は十二歳になるこの腹違いのきょうだいとも顔を合わせる機会がなかった。
結婚式の食事会ですら、レオニス家からは父親しか出席しなかった。
アネイシア自身の実母パメラは死んだと父から聞かされている。
知ったのは一度目の結婚の直前だったが、そのときなにを思ったのか彼女は覚えていない。
悪夢のような二年の結婚生活の前後は、記憶があいまいになっていた。
「仕事柄、多くの上流階級の方々と面識がありますが、アネイシアのような方なら一度見れば忘れられないでしょうに、お目にかかった覚えがないので不思議に思っていました。ご婚約の半年前に社交界デビューなさって、あっという間にご結婚だなんてドラマチックですわ」
「父の、意向ですから」
「それはもちろん、当主たるお父君がお決めになることでしょう。ただギオス伯爵の友人として申しあげるなら、あの方は人としての道理をわきまえておいでで、尊敬と信頼に足るお人柄と胸をはって推薦できますわ」
「本当にその通りです。ディトラスは優しく誠実な人なのです、昔からずっと……私ではつりあわないと皆様がおっしゃるのも、わかっているつもりです」
アネイシアの言に、ヴァネッサは慌ててしまった。
父親の思惑はともかく、ディトラスは信頼していいのだと伝えるつもりで、友人として彼の株を軽くもちあげただけだったのだが、アネイシアが大まじめにそれを肯定するばかりか自己卑下さえするとは、思いもよらなかった。
貴婦人然として感情をあらわにせず、周囲の無責任な言葉など気にもしないといった態度を貫いていた彼女が、ふいにもらした憂慮にみちた言葉に驚きを隠せない。
アネイシアはそこでようやく、ヴァネッサがいたらない妻への諫言を遠まわしに言ったわけではないのだと気づいて、口をつぐんだ。
いたたまれなさに手で口もとをおさえていると、ヴァネッサは苦笑して言った。
「誤解させてしまったようですね。いまこんなことを申しあげて信じていただけるかわかりませんが、アネイシアは貴族の夫人としてあの方にはもったいないほどのお相手だと、わたしは思います。『善い貴婦人』として賞賛される条件をそなえておられ、控えめで思慮深く、新婚でいらっしゃるのにご夫君の私生活にこのうえなく寛大でいらっしゃる」
「いえ、それは」
アネイシアは思わず椅子から立ちあがった。
同時に金属物が床にあたる鋭い音がして、びくりと身体をこわばらせた。
見ると、いつも携帯している短剣が落ちている。
「……なぜ、そんなものを?」
ヴァネッサの声にはっとして顔をあげると、彼女は短剣を凝視して無意識に一歩うしろへさがった。
それは当然の反応だ。
男性ならいざ知らず、女性がスカートのスリットに剣をしのばせているなど普通ではない。
ヴァネッサの警戒もあらわな様子をみて、アネイシアは短剣を拾うとそばの小卓の上へそっと置き、手が届かない位置までしりぞいた。
「誓ってあなたを傷つける意志はありません。それは私の護身剣で、子供のときから肌身離さずもっているものです。私のお守り代わりで……どうぞ、お調べになってください」
すべてをヴァネッサへゆだねることで身の潔白を証明しようとするアネイシアをしばらく見て、彼女は小卓へ手をのばすと銀の鞘におさめられた短剣をもちあげた。
ペーパーナイフに肉づけした程度の細身の剣はあきらかに特注品で、経年劣化による細かな傷や角の丸みがあって、アネイシアの言葉どおり年数がたっており日常的に扱っているものだとわかる。
全体の装飾は簡素だが柄に美しい菫青石がひとつ埋めこまれ、ごく小さく十三年前の年号と、DからAへ、という文字が刻印されていた。
注意深く剣を観察するヴァネッサは、ふと気をゆるめた表情をみせて「嘘ではなさそうですね」と息をついた。
「どうみても人を殺すための武器ではありませんもの。こんな華奢な短剣では、威嚇するのがせいぜいでしょうから」
「怖がらせてしまってごめんなさい、ヴァネッサ」
「さすがに驚きましたが、あなたがこれを大切になさっているのは手入れの良さからもわかります。それにしても、女性に護身剣をもたせるなんて珍しいわ。この略字のAというのはアネイシアのことでしょう。Dは……お父君の名でもありませんね」
「私の、本当に大事な方からいただいたものです」
こわばらせたままだった顔をわずかに弛緩させてアネイシアは言った。
ヴァネッサはしばらくのあいだ短剣とアネイシアをかわるがわる見ていたが、唐突ににっこりと微笑んでうなずいた。
「それほど思い出深いものなら、絵のモチーフに加えないわけにはいきませんわ。ちょうど小道具もなく物足りないと思っていたところですの。短剣をたずさえた貴婦人なんて斬新な構図だわ。ええ、とてもいいアイディアです」
「で、でも……」
さすがに困惑した声を漏らすアネイシアに、ヴァネッサはずいと近寄って言った。
「先ほどは本当に怖かったですわ。でも絵に描いてしまえば、そんな恐ろしさなど飛んでいってしまうに違いありませんとも。あなたならきっとわたしの案に協力してくださるでしょう?」
まったく恐怖を感じた様子もない女画家は、いくぶん演技がかった口調で、ここぞとばかりに自らの思いつきをおし通してきた。
この短剣を絵にすればディトラスに気づかれてしまうのではないかという不安はあったが、ヴァネッサを怖がらせてしまったのも事実だった。
冗談にまぎらわせてくれているものの、短剣を見た瞬間は本気で身の危険を感じただろう。
それを思えば、彼女の希望に沿うのはあるべき態度といえる。
アネイシアは逡巡をふりはらって言った。
「わかりました。ただ、この絵はディトラスには見せないと約束していただけませんか。剣を常に携帯するような女だとは……できれば知られたくないのです」
「ええ、あなたのおっしゃりたいことはわかります。大丈夫、もともとこの絵はわたしが勝手に描いているものですから、許可しなければギオス伯爵でも目にすることはできません」
先ほどとは打って変わって上機嫌のヴァネッサに、アネイシアは内心胸をなでおろした。
「では、ついでですから宝飾品はすべてはずしてしまいましょう。首飾も耳飾も指輪もすべて菫青石をつかっていますから、短剣がひきたちませんもの。そうですね、一連の真珠の首飾があれば、それでじゅうぶんですわ。アネイシアの瞳と短剣の石が対になって、すばらしく映えるでしょう」
その大胆な提案にアネイシアは驚いてしまう。
せっかく揃いでつくってくれたディトラスの好意がほとんど無意味になってしまうことになるが、楽しげに絵の構想を練るヴァネッサを前に、アネイシアはどう返事したものかためらって結局彼女にすべてをゆだねた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます